★1999年  ★2000年  ★2001年  ★2002年 ★2003年  ★2004年  ★2005年  ★2006年  ★2007年  ★2008年  ☆2009年


2007年【地球号を降りたあの人この人、気になる人々

★1999年〜2008年


12/25
■ダン池田(バンド指揮者)
25日、急性呼吸不全のため死去、72歳。告別式は近親者のみで行った。喪主は妻。
 「ダン池田とニューブリード」の指揮者として、テレビ番組「夜のヒットスタジオ」「オールスター家族対抗歌合戦」などで活躍。NHK紅白歌合戦の伴奏も務めた。
12/25
■チコ本間(「ロス・インディオス」メンバー)
25日、自宅マンションから
転落し死去、67歳。送る会は1月17日午後5時から東京都港区高輪のホテルパシフィック東京。喪主は妻。
 1962年にラテン歌謡グループ「ロス・インディオス」を結成。アルパ(インディアン・ハープ)やギターを担当した。代表曲は「別れても好きな人」「コモエスタ赤坂」など。

12/13
■メイ牛山(美容家)さんが12月
13日午後2時48分、心不全のため東京都内の病院で死去。96歳。お別れの会を来年1月26日に東京都港区六本木ハリウッドビューティプラザ。喪主は次男。
 1939年にハリウッド化粧品創設者の牛山清人氏と結婚後、「メイ牛山」を名乗り、美容家として活躍。戦後、米国やフランスなどで美容技術を学び、当時の流行を紹介した。健康食品の研究などにも取り組んだ。著書に「長寿の食卓」「きれいな女になあれ」など。
12/5
■カールハインツ・シュトックハウゼン(電子音楽のパイオニアとされるドイツの現代音楽作曲家)
5日、西部ケルン近郊の自宅で死去、79歳。死因は明らかにされていない。
 1928年に音楽教師を父に生まれ、51年にケルン音楽大で教師の資格を得て、52年にパリで現代音楽の大作曲家メシアンに師事。「テレムジーク」など古典から離れた前衛作品で電子音楽のパイオニアと呼ばれ、ジョン・レノンらロック界にも影響を与えた。 ソロ楽器から巨大ステージまで約300の作品を残し、近年は7つのオペラから成る「光」や、1日24時間を音楽化する連作「音」などに取り組んだ。2001年の米中枢同時テロを「最高の芸術作品」と評して波紋を広げた。
12/3
■勝又 進(漫画家)
3日、悪性黒色腫のため死去、63歳。自宅は東京都大田区西六郷1の29の16。告別式は近親者のみで行った。喪主は長男。
 雑誌「ガロ」を中心に活躍した。2006年に作品集「赤い雪」で日本漫画家協会賞大賞を受賞。
11/30
■デニス・キーン(詩人、翻訳家)ロンドン
30日、脳腫瘍のため英オックスフォードの病院で死去、73歳。
 1961年に来日。約30年間日本に在住し、日本女子大教授などを務めた。日本文学の翻訳に取り組み、92年に北杜夫氏の「幽霊」の英訳で野間文芸翻訳賞。著書に「モダニスト横光利一」など。妻は舞踊評論家ケイコ・キーン。
11/30
■平井イサク(翻訳家)
30日、胸膜炎のため死去、78歳。告別式は故人の遺志により行わない。喪主は妻。
 主な訳書にガードナー著「奇妙な花嫁」、クラーク著「火星の砂」など。
11/13
■稲尾和久(元野球選手)
13日午前1時21分、悪性腫瘍のため福岡市内の病院で死去。70歳。告別式の日取りなどは未定。
 1956年、大分県立別府緑丘高(現・同県立芸術緑丘高)から西鉄に入団し、1年目から21勝6敗の好成績で新人王を獲得。57―59年は3年連続で30勝以上を挙げた。 58年の巨人との日本シリーズでは3連敗後に4連投し、第5戦で自らサヨナラ本塁打を放つなど逆転優勝に貢献。「神様、仏様、稲尾様」と呼ばれた。
 61年にはプロ野球タイ記録のシーズン42勝を記録。中西太、大下弘、豊田泰光らとともに「野武士軍団」と呼ばれた西鉄黄金期を築いた。通算成績は276勝137敗で防御率は1.98。 引退後は西鉄、太平洋(現・西武)、ロッテで監督を務め、93年に野球殿堂入りした。 2001年7月に日本経済新聞で「私の履歴書」を執筆した。
11/11
■草薙幸二郎(俳優)
11日、間質性肺炎のため死去、78歳。お別れの会を行うが日取りなどは未定。喪主は妻。
 1956年の主演映画「真昼の暗黒」で注目を集めた。個性的な脇役として活躍し、NHK大河ドラマ「毛利元就」など多数に出演した。
11/10
■ノーマン・メイラー(米作家) 東部ニュージャージー州のユダヤ系
10日、腎不全のため、ニューヨーク市内の病院で死去した。84歳。
ハーバード大在学中に小説を書き始めた。太平洋戦争に従軍し、フィリピンで日本軍と戦った経験が戦争文学の傑作となった「裸者と死者」(1948年)を生んだ。戦後、進駐軍の一員として千葉県に上陸、銚子や福島県にも滞在した。
 その後も犯罪社会米国の狂気を描いた「アメリカの夢」(65年)など優れた小説を発表。また、ベトナム反戦運動の体験を描いた「夜の軍隊」(68年)や、死刑制度やウーマンリブ運動などを取り上げた骨太のノンフィクションを次々に世に問い、「ニュージャーナリズム」の旗手として知られた。ピュリツァー賞を2度受けたほか、ノーベル文学賞候補に何度も名前が挙がった。 私生活では、結婚を6回繰り返し、養子も含め9人の子どもがいた。最近は健康を害し、入退院を繰り返していた。
11/8
■浜尾文郎(ローマ法王庁枢機卿)
8日、肺がんのため死去、77歳。告別式は12日正午から東京都文京区関口の東京カテドラル聖マリア大聖堂。喪主は横浜教区司教の梅村昌弘氏。
 1951年にローマに留学し、57年、司祭となった。横浜教区司教などを経て2003年、日本人で5人目となる枢機卿に任命された。05年に新法王を選ぶ法王選出会議(コンクラーベ)にも参加した。
10/29
■谷口千吉(映画監督)
29日午前9時39分、誤嚥(ごえん)性肺炎のため東京都世田谷区の病院で死去。95歳。お別れの会を行うが日取りなどは未定。喪主は妻で女優の八千草薫。
 1947年に黒澤明監督との共同脚本による山岳アクション「銀嶺の果て」で監督デビュー。50年の「暁の脱走」で戦争の非情さを描き、話題を集めた。70年の大阪万博では記録映画「日本万国博」の総監督も務めた。
10/18
■木原光知子(もと五輪水泳選手)岡山
18日午前、くも膜下出血のため神奈川県平塚市の病院で死去した。59歳。告別式の日取りなどは未定。
 中学時代から水泳界のホープとして注目され、「ミミ」の愛称で親しまれた。岡山・山陽女子高校1年だった1964年、東京五輪に出場。400メートルメドレーリレーのアンカーを務め、4位入賞に貢献した。東京五輪に水泳選手として出場し、引退後はタレントや指導者として活躍した 現役引退後はタレントに転身、ドラマやバラエティーなど幅広く活躍した。2005年に日本水泳連盟理事に就任し、水泳の普及に貢献した。
10/16
■デボラ・カー(英国の女優)英スコットランド
16日、同国サフォーク州で死去。86歳。代理人が18日明らかにした。長年パーキンソン病を患っていた。
 バレリーナから女優に転身し41年に映画初出演。代表作は「地上より永遠に」「王様と私」など。アカデミー主演女優賞に計6回ノミネートされたが受賞できず「オスカーの偉大な敗者」と呼ばれた。94年にはアカデミー名誉賞を受賞した。
10/14
■高山辰雄(日本画家、文化勲章受章者)大分市
14日午後4時19分、肺炎のため東京都世田谷区成城の自宅で死去。95歳。
 東京美術学校(現東京芸大)日本画科卒。46年に「浴室」が日展の特選を受賞したのを皮切りに、同展を代表する有力画家と認められ、戦後の日本画を先導する役割を果たした。 初めは写実に基づく堅実な画風だったが、ゴーガンら西欧近代絵画の影響を受け、象徴的な雰囲気を強めた。人物画、風景画、花鳥画とレパートリーは広く、いずれも重厚な作風で親しまれた。代表作は「湯泉」「いだく」「聖家族」シリーズなど。
72年に日本芸術院会員となり、75年から2年間、日展理事長を務めた。82年、文化勲章受章。
10/12
■黒川紀章(建築家)名古屋市出身
12日午前、東京都内の病院で死去した。73歳。
 京都大建築学科卒業後、建築の理論運動メタボリズムに参加。集合住宅「中銀カプセルタワー」(東京都中央区)を設計した。主な作品に国立民族学博物館(大阪府吹田市)、国立新美術館(東京都港区)、クアラルンプール新国際空港(マレーシア)、ゴッホ美術館新館(オランダ)などがある。1998年、日本芸術院会員。
 今年4月の東京都知事選に出馬し落選。共生新党を立ち上げ、7月の参院選に東京選挙区から出馬したが落選した。妻は女優の若尾文子。
10/7
■阿部典史(オートバイレーサー )
 7日午後6時20分ごろ、川崎市川崎区大島の市道で、自身が運転する大型バイクがトラックと
衝突事故死。32歳。
 神奈川県警川崎署によると、トラックを運転していた男性(51)が片側2車線の左側車線を走行中、道を間違えたことに気づき、Uターンしようとしたところ、右側車線後方から進行してきた阿部さんの大型バイクと衝突した。阿部さんは病院に運ばれたが間もなく死亡。 1996年のオートバイの世界選手権シリーズ日本グランプリ500ccクラスで、日本人選手として14年ぶりに優勝。99年と2000年にも同選手権を制するなど世界の第一線で活躍した。
9/18
長嶋亜希子(長嶋茂雄の妻)さんが
18日午前4時33分、心不全のため東京都内の病院で死去した。64歳。告別式は近親者のみで行う。
 1964年の東京五輪のコンパニオンを務めた縁でプロ野球の読売巨人軍長嶋茂雄と知り合い65年に結婚。元プロ野球選手でスポーツキャスターの長男、一茂をはじめ2男2女をもうけた。 地球温暖化対策を議論する政府の有識者会議に参加するなど、主婦の視点を生かし環境問題にも取り組んだ。長嶋氏が2004年に脳梗塞(こうそく)で入院した際には、手料理をつくるなどしてリハビリを支えた。
9/6
■ルチアーノ・パバロッティ(世界三大テノールの1人、イタリアのオペラ歌手)モデナ
6日午前、北部モデナの自宅で死去した。71歳。06年7月に膵臓がんの手術を受け、今年8月にもモデナの病院に入院。その後は自宅に戻り療養を続けていた。
61年にはレッジョエミリアのコンクールで優勝、プッチーニの歌劇「ラ・ボエーム」のロドルフォ役で初舞台を踏んだ。力強く伸びやかな最高音の美声で「キング・オブ・ハイC」の異名をとり、日本でも数多くのファンを魅了した。
 90年、サッカーのイタリア・ワールドカップ(W杯)を記念して、プラシド・ドミンゴさん、ホセ・カレーラスさんとローマのカラカラ浴場で三大テノール公演を開催。2002年の日韓共催大会などW杯記念公演にたびたび登場した。06年のトリノ五輪でも開会式で迫力ある歌声を披露した。 
9/4
■佐藤 真(ドキュメンタリー映画監督)
4日、東京都板橋区のマンション踊り場から飛び降り、全身打撲で死去した。49歳。お別れの会を行うが日取りなどは未定。
 東大文学部哲学科を卒業。在学中から水俣病患者の支援活動にかかわり、新潟水俣病の患者らの生活を記録した「阿賀に生きる」(1992年発表)で、芸術選奨新人賞を受賞。関係者によると、昨年からうつ病のため入退院を繰り返していたという。
8/28
■ナンシー梅木(ジャズ歌手、日本人女優)北海道小樽
8月28日、米ミズーリ州の養老施設で死去、78歳。家族が明らかにした。死因はがん。
57年の米映画「サヨナラ」に出演し、日本人で初めて米アカデミー賞助演女優賞を受賞した。
 歌手を志し、米軍キャンプでジャズを歌うようになったのがきっかけで55年に渡米。テレビショーの出演を機に人気が上がり、映画界入りした。
 「サヨナラ」では、第2次世界大戦後の日本で米兵と恋に落ち、最後に心中する悲劇的な日本人女性を演じた。現在までアカデミー賞の演技部門を受賞した唯一の日本人。 その後、ブロードウェー・ミュージカル「フラワー・ドラム・ソング」にも出演、人気を博したが、72年にショービジネスから引退した。

8/22
■富樫雅彦(ジャズドラム奏者)東京都
22日午前11時53分、心不全のため神奈川県松田町の自宅で死去、67歳。葬儀は近親者のみで済ませた。後日お別れ会を行う。
14歳でプロデビューし、渡辺貞夫カルテットなどをへて、山下洋輔らと共演。フリージャズの旗手として日本のジャズ界をリードした。
69年には事故で車いす生活を余儀なくされ、その後は独自のドラムセットで演奏を続けた。代表作に「スピリチュアル・ネイチャー」など。

8/16
■服部まゆみ(作家)
16日、肺がんで死去。58歳。密葬は近親者のみで済ませた。喪主は夫。
 1987年「時のアラベスク」で横溝正史賞を受けデビュー。99年には「この闇と光」が直木賞候補になった。
8/19
■南風洋子(女優)
19日、すい臓がんで死去。77歳。告別式は23日7中野区中央の3宝仙寺。喪主は長女で女優の若杉民。
 1949年に宝塚歌劇団に入団、同期の有馬稲子とのコンビで人気を得た。53年に退団、新東宝を経て59年に劇団民芸に入った。舞台の代表作に「奇蹟の人」「にんじん」「炎の人」など。85年に「噂の二人」で紀伊国屋演劇賞、96年「新版香華」で菊田一夫演劇賞を受賞。今年6、7月の「林の中のナポリ」が最後の舞台となった。
8/15
■マックス・ローチ(ジャズの名ドラム奏者)米南部ノースカロライナ
15日、ニューヨーク・マンハッタンの病院で死去、83歳。死因は不明。
 10代でドラムを始め、40年代からはモダンジャズ界の最高峰とされるトランペット奏者、マイルス・デイビスや、サックス奏者、チャーリー・パーカー(いずれも故人)らの巨匠と共演。50年代半ばにトランペット奏者、故クリフォード・ブラウンとクインテットを結成した。

8/14
■山口小夜子(女優)横浜市
14日、急性肺炎のた死亡。56歳。葬儀は近親者のみで済ませた。後日、お別れの会を開く予定。所属事務所は、年齢を公表していない。
 杉野学園ドレスメーカー学院卒業後モデルとなり1970年代からパリコレクションなどに出て、1972年以降、パリやニューヨークコレクションで活躍。
黒髪のおかっぱ頭に切れ長の目が「東洋の神秘」として注目され、20歳代で世界のトップモデルとなった。73年には資生堂の専属モデルに選ばれた。また、77年には「ニューズウィーク」誌の「世界の6人のトップモデル」にも選ばれた。
 ファッションモデルの傍ら、女優として、映画や寺山修司の演劇に出演、ダンスパフォーマンスや、衣装のデザインなど幅広く活動した。家族や私生活についてはほとんど語ることはなかった。人名辞典や各種データベースによると、年齢も50歳代前半から後半と幅がある。
8/14
■53代横綱琴桜(大相撲の先代佐渡ケ嶽親方)
14日午後、千葉県松戸市の病院で死去した。66歳。告別式は未定。
 1959年に初土俵を踏み、73年に横綱に昇進した。鋭い当たりで先手を取る取り口で「猛牛」のニックネームがついた。優勝5回、殊勲賞4回。幕内通算成績は553勝345敗。 引退後は佐渡ケ嶽部屋を継承し、7月に大関に昇進した琴光喜や大関の琴風や琴欧洲ら多くの後進を育てた。日本相撲協会でも審判部長など要職を務め、2005年に定年退職していた。
8/12
■坪島 孝(映画監督)12日、肺腺がんで死去。79歳。葬儀は故人の遺志で、親族のみで済ませた、喪主は長男。
 1960、70年代に東宝の喜劇映画の監督として活躍。「クレージー黄金作戦」など、クレージーキャッツの主演作を多く手がけた。
8/9
■ジョー・オダネル(元米従軍カメラマン)
現地時間の9日、脳出血のため米テネシー州の病院で死去、85歳。
 1945年、被爆した広島・長崎や空襲で被災した各地の様子を記録するため、占領軍カメラマンとして来日。
米国内で原爆写真展を開催したほか、長崎の被爆直後の様子を撮影した作品「グラウンド・ゼロ」が、4日から長崎で公開されている。
8/8
■奈良 陽(元TBSアナウンサー)
8日、肝臓がんのため死去、65歳。告別式は15日午東京都渋谷区西原代々幡斎場。喪主は妻。
8/6
■松村禎三(作曲家)京都市
6日、肺炎のため東京都内の病院で死去した。78歳。お別れの会を行うが日取りなどは未定。喪主は長男。
 東京芸術大名誉教授。旧制三高を卒業後、上京して音楽を学んだ。現代音楽の作曲家として活躍した。代表作は作曲に13年を費やしたオペラ遠藤周作原作のオペラ「沈黙」。1993年に初演され、日本を代表するオペラとして高い評価を受けた。
 映画や演劇の分野でも活躍し、熊井啓監督「忍ぶ川」「海と毒薬」、黒木和雄監督「竜馬暗殺」などの音楽を作曲。オーケストラ曲、室内楽も数多く手掛けた。
8/1
■阿久 悠(作詞、作家)兵庫県
1日午前5時29分、尿管がんのため亡くなった。70歳。葬儀は近親者のみで行い、後日「送る会」を開く。喪主は妻、深田雄子。
2001年にがんであることが分かり、腎臓摘出の手術を受けた。その後、闘病生活を続けながら、最近まで仕事を精力的に行っていた。今年に入ってから、ペギー葉山の新曲「神様がくれた愛のみち」を作詞。6月中旬に体調不良で降板するまで、ラジオ番組のパーソナリティーも務めていた。
 明治大学卒業後、広告会社勤務を経て、放送作家として独立。1960年代半ばから、作詞家活動を始めた。レコード会社の専属作家制度が崩れていく時期だったことが追い風となり、フリーの立場で多くの依頼を受け、71年に尾崎紀世彦さんが歌った「また逢う日まで」が大ヒットし、一躍注目された。
アイドルの岩崎宏美から、演歌の都はるみ、石川さゆりまで、ジャンルにこだわらず作詞し、ヒット曲を量産した。
 型にはまらない作風でも知られた。北原ミレイさんの「ざんげの値打ちもない」では、少女が愛した男を刺すという、当時はタブーとされた殺人を描き、作品論まで巻き起こした。 さらに非日常的な作品から、庶民の人生を代弁するような歌まで、実に多彩だった。
 70年代後半には沢田研二さんの「勝手にしやがれ」やピンク・レディーの「UFO」など大ヒットを連発。77年には作詞したシングルレコードの売り上げ枚数が年間で1000万枚を超えるなど、希代のヒットメーカーとして名をはせた。 放送作家の経験を生かし、アイデアマンでも知られた。71年に始まった人気オーディション番組「スター誕生!」では、その企画段階から携わり、森昌子、桜田淳子さんらの合格者を世に送り出した。 ピンク・レディーもこの番組から羽ばたいた。フォーク志向のデュオだったが、はつらつとしたセクシーな女性デュオとしてデビューさせ、社会現象となるほどの大成功に導いた。 手がけた作品は500曲以上で、売り上げは600万枚を超える。オリコン・チャートでの1位獲得は22曲に上る。 70年代後半からは小説も執筆し、代表作「瀬戸内少年野球団」(79年)は第82回直木賞の候補になり、映画化もされた。97年に菊池寛賞、99年に紫綬褒章を受けている。
8/1
■芥川瑠璃子(作家)1日死去。90歳。告別式は近親者のみで行う。喪主は三女、耿子。
 作家・芥川龍之介の長男でいとこ同士だった俳優・比呂志氏(故人)と結婚。「双影――芥川龍之介と夫比呂志」「青春のかたみ――芥川三兄弟」など芥川家に関する著作を残した。
7/30
■小田実(作家)大阪市
30日、東京都内の病院で死去した。75歳。告別式の日取りなどは未定。
 胃がんと診断され今年5月、東京都内の病院に入院し、手術は受けずに化学療法による治療を続けていた。
 1957年に東京大文学部を卒業後、米国ハーバード大に留学。60年に帰国するまでの間、ヨーロッパやアジアなど世界各国を旅行し、体験をつづった「何でも見てやろう」がベストセラーとなった。反戦運動や阪神大震災の被災者支援を求める運動で知られる。
7/30
ミケランジェロ・アントニオーニ(映画監督)イタリア北部フェラーラ
30日、ローマ市内で死去した。94歳。ロベルト・ロッセリーニ監督に師事し、1950年、自ら監督デビュー。「太陽はひとりぼっち」(1962年)などの名作で知られるイタリア映画界の巨匠。現代人の孤独を描いた作品が多く、カンヌ国際映画祭の最高賞パルムドールを受賞した「欲望」(66年)、同審査員賞を受賞した「情事」(60年)などが代表作。近年では、ドイツのヴィム・ヴェンダース監督との共作「愛のめぐりあい」(95年)で知られる。95年には、米アカデミー賞名誉賞も受賞した。

7/31
■イングマル・ベルイマン(映画監督)スエーデン
30日、同国南部フォラ島の自宅で死去した。89歳。死因は不明。
ストックホルム大学を卒業後、映画製作を本格化させ、「危機」(46年)で監督デビューし、「夏の夜は三たび微笑む」(55年)で頭角を現した。代表作に、中世の騎士の旅を描いた「第七の封印」(56年)、悪夢におびえる医師を主人公にした「野いちご」(57年)、キリスト教を信奉する少女の悲劇を表現した「処女の泉」(60年)、姉妹の愛をテーマにした「沈黙」(63年)など、細密な演出で、人間の孤独とそこからの救済を描いて40本以上の作品を残し、20世紀を代表する映画界の巨匠と呼ばれた。
82年には、子供を題材にした傑作「ファニーとアレクサンデル」で世界のファンを魅了。こうした名作が評価され、97年の第50回カンヌ映画祭では、現存する最高の監督として特別賞「パルム・ド・パルムドール」を受賞。米アカデミー賞でも、外国作品の最優秀賞に3度選ばれた。
 95年には映画監督からの引退を表明していたが、2003年に、家族の愛憎を描いた「サラバンド」を自身の遺作として発表していた。5回結婚し、子供8人いるという。日本映画にも関心を示し、黒沢明監督(故人)にも敬意を示していた。
 映画評論家・品田雄吉さんの話「宗教や神の存在と肉体という、相対する対象に対して深い考えを持ち、具体的な映像として示した偉大な映像作家。映像の官能性と観念的なところが魅力であり、北欧的な厳しさと、生身の人間への賛歌と両方を持ち合わせていた」
7/28
■カール・ゴッチ(プロレスラー)
28日、米フロリダ州タンパの自宅で死去したと米国のプロレス専門ウェブサイトが伝えた。82歳。
 サイエンティフィックレスリングなど複数のサイトによると、亡くなったのは、28日午後9時45分で死因は不明。
 ジャーマン・スープレックスを得意技にプロレスの神様と呼ばれ人気者として、ショー的要素を排して強さを追求する「ストロングスタイル」を生み出した。19722年に新日本プロレスの旗揚げ戦で破ったアントニオ猪木や、藤波辰爾らの育ての親でもあり、「鉄人」と呼ばれたルー・テーズさん(2002年死去)とともに、日本のプロレス界に大きな影響を与えた。
7/18
■宮本顕治(元共産党議長、元参院議員)山口県
18日午後2時33分、老衰のため東京都内の病院で死去、98歳。出身。葬儀・告別式の日取り、喪主などは未定。
 31年、東大卒。共産党に入党し、33年に特高警察に「スパイ査問事件」で逮捕され、裁判では治安維持法違反などで無期懲役の判決(後に同法廃止で取り消し)を受けたが、終戦までの12年間獄中で「非転向」を貫いた。 戦後、占領軍の命令で釈放され、党中央委員。党が極左主義から転換した58年の党再建大会で書記長に就任、旧ソ連、中国両共産党と一線を画す「自主独立路線」を確立した。 61年には「民主主義革命」を掲げる新綱領を採択し、70年に委員長。82年に委員長を譲った後も議長として最高指導者の地位にあった。97年の党大会で名誉議長となり、一線を退いた。2000年に名誉役員。
7/10
■太田省吾(劇作家、演出家)中国済南市
13日午後5時10分、肺がんのため東京都港区の病院で死去、67歳。葬儀・告別式は行わず、後日「お別れの会」を開く予定。
 68年に劇団「転形劇場」の旗揚げに参加し、70年から主宰。完全な沈黙劇「水の駅」や「小町風伝」などの作品を発表した。
88年に劇団を解散後、神奈川県の藤沢市湘南台文化センター市民シアター芸術監督や近畿大教授、京都造形芸術大教授などを務めた。
7/9
■チャールズ・レイン(米俳優)サンフランシスコ
9日、米カリフォルニア州ロサンゼルス郊外の自宅で死去。
102歳。死因は不明。
 保険業を経て役者となり、60年以上にわたって数々の映画やテレビドラマに出演。幅広い役柄を演じる名脇役として知られた。代表作は「スミス都へ行く」(39年)や「素晴らしき哉、人生!」(46年)など。
7/8
■アンドレ・シュラキ(フランス系のイスラエル人思想家、作家)アルジェリア
9日、エルサレムの自宅で死去、89歳。死因は不明だが、長く闘病生活を送っていた。
 パリで法学を学び、第2次大戦中はレジスタンス(対ドイツ抵抗運動)に参加。著書に「イスラエル」や「ユダヤ教の歴史」、「ユダヤ思想」など。58年にイスラエルに移り、ベングリオン初代首相の顧問などを務めた。
7/8
■伊東かおる(漫談家)大分県
8日午前3時21分、腎不全のため名古屋市中区の病院で死去、58歳。自宅は名古屋市中区富士見町5前津荘9号。告別式は名古屋市中区平和、平和愛昇殿。喪主は長男。 74年に名古屋市の大須演芸場でデビュー。同演芸場を拠点に30年以上にわたり、名古屋弁を使った漫談で人気を博した。
7/8
■ジェリー伊藤(俳優、歌手)
8日午前(日本時間同日深夜)、肺炎のため米カリフォルニア州の自宅で死去、79歳。
 米国生まれで50年代から本格的に日本で活動。「モスラ」「江分利満氏の優雅な生活」などの映画や「王様と私」などのミュージカルに登場。
7/4
■飯田深雪(料理研究家、アートフラワー創始者)
4日、老衰のため死去、
103歳。お別れの会は20日東京・ホテルオークラ。喪主は長男。
 布を染めて作る造花(アートフラワー)を独自に考案し、フランス料理とともに戦後、日本で教え始めた。海外にも積極的に進出し、カナダやパリ、ニューヨークなどで展覧会を開催。この業績やフランス料理を広めた功績を評価され、2003年にフランスの最高勲章「レジオン・ドヌール勲章」を授与された。
6/28
■宮沢喜一(元首相)東京都
28日午後1時16分、老衰のため都内の自宅で死去。87歳。葬儀は親族だけで行い、告別式は別途執り行う。
91年11月、78代首相に就任、1年半首相を務めた 。
戦後政治で一貫して保守本流に位置し、国連平和維持活動協力法などを成立させた。93年6月、政治改革が争点となった衆院選で過半数割れに追い込まれ退陣。
自民一党支配による長期政権最後の宰相に。
6/25
■谷 幹一(俳優)東京都
25日午後2時28分、脳出血のため亡くなった。74歳。告別式は品川区西五反田の安楽寺別院五雲閣。喪主は妻。
 東京・浅草でコメディアンとして活動、渥美清、関敬六とのお笑いトリオ「スリーポケッツ」を結成し、テレビのコント番組で人気を博した。俳優としても「月光仮面」や「大岡越前」などに出演。日本喜劇人協会副会長も務めた。
6/8
■観世栄夫(能楽師観世流シテ方)東京都
8日午前8時35分、大腸がんのため東京都墨田区の病院で死去、79歳。葬儀・告別式の日取りは未定。喪主は妻。
 7世観世銕之丞(雅雪)の二男。新作能やオペラ、現代劇などの演出に取り組み、小劇場やアングラ演劇にも力を入れた。
 木下順二作の舞台「子午線の祀り」を演出、出演。勅使河原宏監督「利休」、新藤兼人監督「午後の遺言状」など映画やテレビドラマでも活躍した。インスタントコーヒーのCMで「違いがわかる男」として出演、話題になった。 今年5月、東京都内の中央自動車道で運転中に事故を起こして入院していた。
6/4
■クリート・ボイヤー(元米大リーグ選手)
4日、アトランタの病院で死去、70歳。
 華麗な三塁守備でヤンキースの1960年からの5年連続ワールドシリーズ進出に貢献。大洋(現横浜)で72年から4年間、プレーし、現役引退後はコーチとして後進の指導に当たった。
6/2
■羽田健太郎(ピアニスト)
2日午後11時53分、肝細胞がんのため東京都内の病院で死去した。58歳。告別式は港区元麻布1ノ6ノ21の麻布山善福寺。喪主は妻。
 桐朋学園大在学中の1970年、「音楽コンクール」ピアノ部門で入賞。卒業後はスタジオミュージシャンとして「勝手にしやがれ」など数多くの歌謡曲のレコーディングに参加、テレビ番組「題名のない音楽会21」の司会などで知られ、テレビドラマ「渡る世間は鬼ばかり」の音楽も手がけた。81年日本アカデミー賞優秀音楽賞を受賞。
6/1
■石立鉄男(俳優)1日、急性動脈瘤のため死去、64歳。告別式は近親者のみで行う。喪主は長男。
 1963年にテレビに初出演。70年のテレビドラマ「おくさまは18歳」や、72年の「パパと呼ばないで」に出演し人気を集めた。
 所属事務所などによると、1日朝、静岡県熱海市内の自宅で倒れているのが見つかり、搬送先の病院で死亡が確認された。
5/27
■坂井泉水(歌手)神奈川県
27日午後3時10分、脳挫傷のため東京都新宿区の病院で死去、40歳。葬儀・告別式は近親者で行う喪主は未定。
 昨年6月から子宮けいがんのため入退院を繰り返していたが、今年4月、肺への転移が見つかり再入院した。警視庁四谷署などによると、26日早朝、病院の非常階段の約3メートルの高さから転落、後頭部を強打した。所属事務所は転落の原因について「散歩から病室に戻る途中、前日の雨により足を滑らせた」としている。
 91年にデビュー。93年の「負けないで」が翌年の選抜高校野球大会開会式の入場行進曲に選ばれたほか、「揺れる想い」「マイフレンド」などが大ヒットした。ZARDでは作詞も担当。さわやかな歌声と親しみやすい曲で若者を中心に人気を集めていた。
5/24
■大宅 昌(大宅壮一文庫理事長)
24日、老衰のため死去
、100歳。連絡先は同文庫総務課。告別式は近親者のみで行った。喪主は三女で評論家の映子。
 評論家の故大宅壮一氏の妻で、1971年、「雑誌の図書館」として知られる大宅壮一文庫を設立した。著書に「愉しく生きる老い」な
5/24
■大庭みな子(芥川賞作家、日本芸術院会員)東京
24日午前9時14分、腎不全のため千葉県浦安市の病院で死去、76歳。告別式は近親者のみで行う。喪主は夫。
 津田塾大卒。結婚後、夫の勤務の関係で59年から米国に住み、ウィスコンシン大などで学ぶ。米国・アラスカで暮らした経験などをもとにした日本人夫婦を中心に現代人の孤独を描いた「三匹の蟹」で68年、群像新人文学賞と芥川賞を受賞。 70年に帰国。とらえどころのない官能や心のうつろい、人間の関係性を、しなやかな感性の文章で表現しようとした小説、エッセーが多い。 他の作品に「啼(な)く鳥の」など。 96年に脳梗塞で倒れ、リハビリのかたわら、夫、利雄の介護で「浦安うた日記」などを口述でまとめた。
5/23
■玉川福太郎(浪曲師)
 23日午前10時50分ごろ、山形県酒田市の農道で田植え機を運転していた水田に転落し、田植え機の下敷きになり、病院に運ばれたが死亡、61歳。
 調べによると、現場は砂利道の緩やかな左カーブ。妻の実家に田植えの手伝いに来ていた玉川さんが作業を終え、田植え機を戻す途中、約2メートル下の水田に転落した。近くで作業していた親類が玉川さんを発見し119番した。酒田署で原因を調べている。 告別式は25日午前11時から山形県酒田市セレモニーホール酒田。喪主は妻。
5/23
■熊井 啓(映画監督)
23日午前9時51分、くも膜下出血のため東京都内の病院で死去、76歳。別れの会を行うが日取りなどは未定。喪主は妻。
 信州大学卒業後の1954年、日活入り。「帝銀事件・死刑囚」で監督デビューし、米情報機関の謀略を描いた「日本列島」で社会派監督としての地位を確立した。
 68年、三船敏郎主演の「黒部の太陽」で高度成長の光と影を活写。「謀殺・下山事件」などを通じて戦後日本の暗部を見つめた。2001年、松本サリン事件を題材にした「日本の黒い夏 冤罪」を発表した。死去、
5/22
■鈴木光枝(女優)
22日、心不全のため死去、88歳。別れの会を行うが日取りなどは未定。喪主は長女で女優の佐々木愛。
 1942年に山形勲や山村聡らと文化座を設立。リアリズムを基調とした新しい創作劇を一貫して上演し、一座の代表を務めた。代表作は「おりき」「荷車の歌」など。 テレビドラマなどでも親しまれた。
5/17
■塩沢 とき(女優)
17日、胃がんのため死去、79歳。別れの会を行うが日取りなどは未定。
 1947年東宝ニューフェースに選ばれ、芸能界入り。映画やテレビドラマ、舞台などで活躍し、バラエティー番組では奇抜な髪形と大きなメガネ、大胆な発言で人気を集めた。舌がんや乳がん手術の経験を明らかにし、闘病生活を送りながら活動を続けた。
5/17
■藤原伊織(直木賞作家)大阪府
17日午前10時14分、2005年に食道がんを公表し、闘病生活を続けていたが、食道がんのため東京都内の病院で死去、59歳。告別式は近親者のみで行う。喪主は妻。
 東大文学部を卒業後、電通に入社。勤務の傍ら作家生活を続け1995年、全共闘運動の経験がある男を主人公とした小説「テロリストのパラソル」で江戸川乱歩賞、翌年に同作で直木賞を受けた。ギャンブル好きで無頼派作家としても知られ、02年に電通を退職後は執筆に専念していた。
5/15
■はな 寛太(漫才師)
15日、食道がんのため死去、61歳。告別式は大阪市北区長柄西大阪北玉泉院。喪主は弟。
 1960年、松竹新喜劇に入門。故藤山寛美氏の門下生で68年に漫才コンビ「はな寛太・いま寛大」を結成。いま寛大氏の「ちょっとまってね」のギャグに、鋭い突っ込みを入れる芸風で人気を集めた。
5/6
■三好京三(作家)
11日、脳梗塞のため死去、76歳。自宅は岩手県奥州市前沢区新町裏。告別式は同市前沢区山下の霊桃寺。喪主は妻。
 岩手県の分校などで小学校教諭を務め、1976年、養女の教育やしつけの体験を基にした小説「子育てごっこ」で直木賞を受賞。
5/6
■山口あかり(作詞家)
10日、大腸がんのため死去、72歳。自宅は長野県上田市常田。告別式は12日正午から同市の上田愛昇殿。喪主はおい。
 アニメ「まんが日本昔ばなし」のエンディング曲「にんげんっていいな」などを作詞した。
5/8
■栽 弘義(沖縄水産高野球部監督)沖縄県
8日午前10時37分、呼吸不全のため沖縄県内の病院で死去、65歳。自宅は同県糸満市賀数。葬儀・告別式は11日那覇市松山大典寺で。喪主は妻。
90、91年夏の甲子園大会で、沖縄水産を2度準優勝に導いた。
5/6
■池宮彰一郎(作家、脚本家)静岡県立沼津商卒
6日午後8時26分、肺がんのため杉並区上高井戸の自宅で死去、83歳。葬儀・告別式は近親者のみで行い、お別れの会を開く予定。喪主は妻。 
52年に脚本家として独立し、映画「十三人の刺客」「大殺陣」、テレビドラマ「必殺仕掛人」などのシナリオを本名で執筆した。
92年、忠臣蔵を題材にした時代小説「四十七人の刺客」で69歳の時に作家デビューし、新田次郎文学賞を受賞。その後「高杉晋作」「本能寺」など歴史上の有名人や事件を題材にした作品で人気を集めた。
 一方、柴田錬三郎賞を受賞した「島津奔(はし)る」と、「遁(に)げろ家康」に司馬遼太郎の作品と類似した記述があると指摘され、絶版・自主回収となった。
5/6
■北村和夫(俳優)東京都
6日午前7時40分、肺炎による呼吸不全のため東京都新宿区の病院で死去、80歳。
北村家と文学座との合同葬は12日信濃町、文学座アトリエで。葬儀委員長は俳優の加藤武。喪主は妻。
 早大文学部を卒業し、文学座入り。53年「欲望という名の電車」のスタンレー役に抜てきされ、「女の一生」の栄二役などで注目された。代表的な舞台に「花咲くチェリー」など。長年にわたって故杉村春子の相手役を務めた。
 テレビでは「太閤記」「氷点」「おしん」、映画では小学校以来の親友だった故今村昌平監督の「にっぽん昆虫記」「黒い雨」などに出演した。
 長男北村有起哉と長女北村由里は、ともに俳優。97年から日本新劇俳優協会会長。
5/4
■阿知波信介(アクターズプロモーション社長、元俳優)島根県
4
日死去、67歳。出身。葬儀は近親者で済ませた。喪主は妻。
 テレビ番組「ウルトラセブン」にソガ隊員役で出演。俳優多岐川裕美と結婚、離婚した。
 アクターズプロモーションなどによると、鹿児島県霧島市の「犬飼滝」で4日、遺体で発見された。以前から高血圧治療などを苦にしており、
自殺の可能性が高いという。
5/3
■横山ノック(参院議員、大阪府知事、漫才師)神戸市
3日午前7時15分、咽頭がんのため兵庫県西宮市の病院で死去した。75歳。告別式は近親者のみで行う。喪主は長男。
 高等小学校卒業後、米軍施設で勤務した後、芸能界入り。1960年ごろに現在の芸名となり、上岡龍太郎(横山パンチ)、横山フックの3人で「漫画トリオ」を結成。「パンパカパーン、今週のハイライト」というフレーズで始まる時事漫才で人気を博した。 68年に参院選に無所属で当選。参院第二院クラブ代表などを歴任した。通算4期目の95年に大阪府知事選に「無党派」を掲げて立候補。東京都知事選の故青島幸男氏とともに無党派層の追い風で当選、「青島・ノック現象」と言われた。
4/27
■ムスチスラフ・ロストロポービッチ(チェロ奏者、指揮者)アゼルバイジャン
27日、今年に入り入退院を繰り返していたがモスクワ市内の病院で死去した。80歳。
 モスクワ音楽院でチェロと作曲を学び、多くの国際チェロコンクールで優勝した。74年に米国に亡命し、ワシントン・ナショナル交響楽団の指揮者を務めた。ブリテン、ショスタコービッチ、プロコフィエフら20世紀を代表する作曲家が、同氏のために書いた曲はチェロ音楽の名曲として定着した。
 ノーベル文学賞を受賞したソ連反体制作家のソルジェニーツィン氏らと親交を深め、70年に演奏活動を禁止された。亡命後の78年にはソ連当局に市民権を剥奪(はくだつ)されたが、ゴルバチョフ政権下の90年に市民権を回復。ゴルバチョフ氏の失脚を狙った91年8月の保守派のクーデター阻止では、23日に亡くなったエリツィン前大統領らと共に行動した。 知日家で日本の音楽教育にも深くかかわった。指揮者の小澤征爾氏と親交があった。
4/23
■ボリス・エリツィン(ロシア前大統領)
23日午後、心臓発作で急死。76歳。
 エリツィン氏はソ連崩壊、独立国家共同体(CIS)発足の主導者。直接選挙で選出された初の大統領として民主化、市場経済化改革を推進し、西側諸国との協調路線を推進した。再選を果たした1996年夏の大統領選挙期間中に心臓発作を起こしてから健康不安がたびたび表面化し、政治、経済混乱を招いた。
 外交的には西側との協調路線を展開。93年1月にブッシュ米大統領(当時)との間で第二次戦略兵器削減条約(START2)に調印。97年にはポーランドなど3カ国の北大西洋条約機構(NATO)加盟を容認した。
4/19
■デビッド・ハルバースタム(米作家)ニューヨーク
23日、米サンフランシスコ郊外で交通事故に遭い、死亡した。73歳だった。米メディアが伝えた。
 22日にカリフォルニア大バークレー校でジャーナリズムについて講演。事故当時、朝鮮戦争を題材とした次の著作の取材に向かう途中だったという。
ハーバード大卒業後、ミシシッピ州の新聞社を経て、ニューヨーク・タイムズに入社。64年、初期のベトナム戦争を巡る一連の報道で、優れた報道を顕彰するピュリツァー賞を獲得した。 67年に退社後、作家活動に専念。重厚な歴史観と緻密(ちみつ)な取材に裏付けられた著作は21作に上り、テーマは多岐にわたる。「ベスト&ブライテスト」では、米ジョンソン政権の政治エリートがベトナム戦争に深入りしていく様子を描いた。
4/19
■ジャンピエール・カッセル(フランスの俳優)
19日、がんで闘病生活を送っていたがパリで死去、74歳。
 ジャン・ルノワールやジャンピエール・メルビルら巨匠監督の作品に多数出演。出演作は「ブルジョワジーの秘かな愉しみ」(72年)など。「素晴らしきヒコーキ野郎」(65年)では石原裕次郎氏と共演した。俳優バンサン・カッセルの父。
4/16
■若浪 順(大相撲の元小結)茨城県
16日午後零時40分、肺炎による心不全のため東京都港区の病院で死去、66歳。葬儀・告別式は中野区中央、宝仙寺で。喪主は長男。
1957年春場所に立浪部屋から初土俵。豪快なつりで人気を集め、前頭8枚目だった68年春場所で平幕優勝した。
4/11
■カート・ボネガット(米小説家)
1日、数週間前に倒れ、頭部を負傷しニューヨークで死去した。84歳。
「スローターハウス5」などで知られ、現代米文学を代表する小説家がだった。作品「スローターハウス5」「タイタンの妖女」は日本でも翻訳されている。 
4/10
■ダコタ・ステイトン(米ジャズ・ブルース歌手)ピッツバーグ
10日、ニューヨーク市内で死去、76歳。数年来、体調が思わしくなかった。
小さいころから音楽に親しみ、18歳になるころまでに既にデトロイトのナイトクラブなどで歌っていた。その後、ニューヨークに移り、57年にはアルバム「ザ・レイト・レイト・ショー」がヒットした。

3/27
■植木等(俳優)
27日午前10時41分、呼吸不全のため東京都内の病院で死去した。80歳。告別式は近親者のみで行う。お別れの会の日取りなどは未定。喪主は長男。
 三重県の実家の寺院を継ぐ僧侶修行のために11歳で上京した。大学在学中からバンド活動に参加、1957年、ハナ肇(93年9月死去)主宰のコミックバンド「クレージーキャッツ」に加わった。61年に青島幸男(昨年12月死去)作詞の「スーダラ節」が大ヒットし、国民的人気者になった。59年「おとなの漫画」、61年「シャボン玉ホリデー」などテレビ草創期のバラエティー番組にも出演。「ハイそれまでヨ」「お呼びでない」など多くの流行語を生んだ。
3/25
■島尾ミホ(作家、作家の故島尾敏雄の妻)
25日、脳内出血のため死去、87歳。告別式は29日午後1時から鹿児島奄美市名瀬幸町のカトリック名瀬聖心教会。喪主は長男で写真家の伸三。
 太平洋戦争中、鹿児島県・加計呂麻島で教員をしていた時、海軍特攻隊長として赴任した敏雄と知り合い、戦後に結婚。敏雄の小説「死の棘」のモデルになった。短編集「海辺の生と死」で田村俊子賞。
3/22
■城山三郎(作家)名古屋市
22日午前6時50分、間質性肺炎のため神奈川県茅ケ崎市の病院で死去、79歳。葬儀は親族のみで行う。後日、お別れの会を開く予定。喪主は長男。
 東京商科大(現一橋大)卒。1959年、企業悪を暴いた「総会屋錦城」で直木賞を受賞。「小説日本銀行」「毎日が日曜日」などで企業の内幕と人間模様を描き、経済小説ブームを担った。
 A級戦犯として処刑された広田弘毅元首相を題材にした「落日燃ゆ」で吉川英治文学賞。戦前の金解禁を断行し凶弾に倒れた浜口雄幸と井上準之助を描いた「男子の本懐」などの伝記小説、「官僚たちの夏」などの政治小説で、組織と個人の葛藤を描き続け、96年に菊池寛賞。個人情報保護法に強く反対し積極的に発言した。
 ほかの作品に「指揮官たちの特攻」「粗にして野だが卑ではない」「昭和の戦争文学」(全6巻)など。
3/17
■船越英二(俳優)東京都
17日午後10時57分、脳こうそくのため静岡県内の病院で死去、84歳。葬儀・告別式は近親者のみで行う。
 1947(昭和22)年に大映ニューフェースに合格。89年、市川崑監督「野火」での演技が絶賛された。その後、芸域を広げて性格俳優になり、「四十八歳の抵抗」「夜の蝶」など約200本の映画に出演した。
 70年代からテレビで主に活躍。「時間ですよ」の銭湯の主人役をはじめ、「熱中時代」など人気ドラマに数多く出演。温かみのある父親や校長先生役で親しまれた。
89年に紫綬褒章を受章。妻は元女優の長谷川裕見子。長男は俳優の船越英一郎。
3/16
■キャロル・リチャーズ(米歌手)イリノイ州
16日、米フロリダ州ベロビーチの病院で腎不全のため死去、84歳。
 歌手や映画俳優として知られたビング・クロスビーと有名なクリスマスソング「シルバーベル」をレコーディングした。
3/15
■スチュアート・ローゼンバーグ(米テレビ演出家、映画監督)ニューヨーク出身
15日、心臓発作のためロサンゼルス・ビバリーヒルズの自宅で死去、79歳。
 日本でも放送されたテレビドラマ「弁護士プレストン」で1963年にエミー賞を受賞。映画では、ポール・ニューマンが脱獄を図る囚人を演じた「暴力脱獄」(67年)や、ホラー「悪魔の棲む家」(79年)などを手掛けた。
3/14
■鈴木ヒロミツ(俳優)東京都
14日午前10時2分、肝細胞がんのため東京都千代田区の病院で死去、60歳。葬儀・告別式は文京区小石川伝通院で。喪主は長男。
 67年、グループサウンズブームの中から生まれたバンド、モップスのボーカルとしてデビュー。「たどりついたらいつも雨ふり」「気らくにいこう」などのヒット曲を出した。 その後、俳優に転身し、「夜明けの刑事」などのテレビドラマや映画の脇役として多数出演したほか、NHKの「レッツゴーヤング」の司会などでも活躍した。
3/10
■ベティ・ハットン(米ミュージカル女優)ミシガン州
カリフォルニア州南部パームスプリングズで死去、86歳。死亡日時や死因は明らかにされていない。
 50年代にミュージカル映画「アニーよ銃をとれ」に出演、スターの座に就いた。その後、映画やテレビシリーズに出演。活発でユーモアにあふれる演技が持ち味だった。
3/10
■時実新子(川柳作家、エッセイスト)岡山市
10日午前5時15分、肺がんのため神戸市灘区の病院で死去、78歳。出身。葬儀・告別式は近親者で営む。喪主は夫。 後日関係者で「時実新子さんをしのぶ会」を開く。
 63(昭和38)年に第一句集「新子」を発表。87年刊行の「おっとあるおんなのこい」との副題がある句集「有夫恋(ゆうふれん)」が注目を集め、「川柳界の与謝野晶子」と呼ばれるなど話題になった。恋愛や人生をテーマにした軽妙なエッセーで若い世代にも支持された。96年に句誌「川柳大学」を創刊、主宰し、後進の育成に努めた。著書に「小説 新子」「花の結び目」「時実新子全句集」など。
3/8
■小林恭治(声優)
8日、くも膜下出血のため死去、75歳。告別式は14日渋谷区西原代々幡斎場。喪主は妻。
 アニメ「おそ松くん」の初代イヤミ役、NHK人形劇「ひょっこりひょうたん島」のダンディ役を担当した。
2/26
■高松英郎(俳優)高知県
26日午前、心筋こうそくのため自宅で死去、77歳。葬儀・告別式などは親族のみで行う。
 51年、大映にニューフェースとして入社。その後、テレビに活動の場を移し、69年からのドラマ「柔道一直線」では、主人公に柔道を教える厳格な師匠役で人気を集めた。 NHK連続テレビ小説「雲のじゅうたん」や、大河ドラマ「八代将軍吉宗」などに出演、渋味のある脇役として活躍した。88年に米アカデミー賞の作品賞などを受賞した「ラストエンペラー」には軍人役で出演した。
2/25
■飯田龍太(俳人)山梨県
25日午後8時35分、肺炎のため甲府市の病院で死去、86歳。葬儀・告別式は甲府市南口町、アピオセレモニーホール天昇殿。喪主は長男秀実。
 国学院大卒。父は俳壇に大きな足跡を残した故飯田蛇笏。1962年、没した父に代わり名門俳誌「雲母」の主宰となった。
 自然に根差した感性と叙情性豊かな作風で多くの賞を受け、現代俳句を代表する一人となった。ユーモアあふれる自在な随筆でも親しまれた。代表句に〈かたつむり甲斐も信濃も雨のなか〉〈一月の川一月の谷の中〉など。 句集に「百戸の谿(たに)」「忘音」(読売文学賞)「山の木」など。92年には、高齢などの理由で「雲母」を自ら終刊させ、実作の一線から退いた。05年末に「飯田龍太全集」(全10巻)が完結した。
2/24
■ハーマン・ブリクス(米俳優)ワシントン州タコマ
24日、米カリフォルニア州サンタモニカの病院で、腰の負傷による合併症のため死去。
100歳。
 大学のアメリカン・フットボール選手を経て、28年のアムステルダム五輪の砲丸投げで銀メダルを獲得。ロサンゼルスで映画界に入り「ターザンの新冒険」(35年)でターザンを演じた。その後映画、テレビ俳優から不動産業に転じた。
2/22
■ロータルギュンター・ブーフハイム(独・小説家)ワイマール
22日、心不全のためミュンヘン近郊のフェルダフィンクで死去、89歳。
 ドレスデンやミュンヘンの芸術アカデミーで絵画などを学んだ。第2次世界大戦中、ドイツ潜水艦に搭乗取材した経験を基に、極限状態の人間を描いた小説「Uボート」(73年)が代表作。
ウォルフガング・ペーターゼン監督が81年に映画化し、83年の米アカデミー賞では6部門にノミネートされた。

2/21
■アル・ビオラ(米ギタリスト)ニューヨーク
21日、がんのため米カリフォルニア州の自宅で死去、87歳。
 早くからギターを演奏。歌手の故フランク・シナトラの「ニューヨーク・ニューヨーク」「マイウェイ」の録音に参加。歌手の故マービン・ゲイ、米コーラスグループ、マンハッタン・トランスファーなど500枚以上のアルバムに登場。フランシス・コッポラ監督の映画「ゴッドファーザー」のテーマ曲でのマンドリン演奏でも知られる。

2/19
■ジャネット・ブレア(米女優)ペンシルベニア州
米カリフォルニア州南部サンタモニカの病院で19日、肺炎による合併症で死去、85歳。
 教会の聖歌隊やバンド歌手を経てハリウッドへ。コメディー映画などに出演した後、舞台女優に転身、劇場ミュージカル「南太平洋」に1200回以上、出演した。 その後は舞台とテレビを中心に活躍、70年代にはテレビシリーズ「ザ・スミス・ファミリー」で人気俳優ヘンリー・フォンダの妻を演じた。
2/15
■レイ・エバンズ(米作詞家)ニューヨーク州
15日、米カリフォルニア州南部の病院で心不全のため死去、92歳。
 ペンシルベニア大在学中に作曲家のジェイ・リビングストン(2001年死去)と出会い、音楽活動を開始。2人で、映画
「知りすぎていた男」(56年)の挿入歌「ケ・セラ・セラ」など、世界的な映画音楽を生み出し、アカデミー賞歌曲賞を3回受賞した
2/12
■岩合徳光(動物写真家、写真家岩合光昭氏の父)北海道
12日午前5時9分、低酸素脳症のため東京都新宿区の病院で死去、91歳。葬儀・告別式は近親者で済ませた。喪主は妻。
 代表作に写真集「滅びゆく日本の野生」「動物カメラマン」がある。
2/10
■第10代式守錦太夫(大相撲の元行司)佐賀県
10日午前4時45分、急性心不全のため千葉県松戸市西馬橋の自宅で死去、66歳。葬儀・告別式は松戸市北松戸、ライフケア常盤会堂で。喪主は妻。
 57年九州場所で初土俵。94年秋場所から第10代式守錦太夫を襲名し、05年名古屋場所を最後に定年で引退した。
2/9
■イアン・リチャードソン(英俳優)エディンバラ
9日、ロンドンの自宅で死去、72歳。就寝中に突然死したとみられる。
 グラスゴーの演劇学校で学んだ後、英国を代表する名門劇団ロイヤル・シェークスピア・カンパニーで活躍。ブロードウェーのミュージカル「マイ・フェア・レディ」のヒギンズ教授役でトニー賞にノミネートされた。「M・バタフライ」(93年)など映画にも多数出演した。
2/6
■フランキー・レイン(米歌手)
6日、心不全のため米カリフォルニア州サンディエゴの病院で死去、93歳。
 1913年、イタリア系移民の家庭に生まれ、ナイトクラブ歌手などを経て本格デビュー。50年代から60年代にかけての人気テレビ西部劇「ローハイド」の主題歌で知られるほか、「ミュール・トレイン」などのヒット曲がある。90年代まで、チャリティー・コンサートなどで活躍した。

2/6
■渡辺和博(イラストレーター)
6日未明肝臓がんのため東京都新宿区の病院で死去、56歳。告別式は10日午前11時から東京都新宿区須賀町14の1の四谷たちばな会館。喪主は妻。
 雑誌「ガロ」編集長を経てフリーに。84年に出版した「金魂巻」で、人気の職業を「マル金(=金持ち)」と「マルビ(=貧乏)」に分類。バブル時代を先取りする笑いが話題となり、第1回流行語大賞を受賞した。
2/5
■生恵幸子(漫才師)大阪市
5日、脳出血後遺症のため死去、83歳。吉本興業大阪広報部。告別式の日取りなどは未定。
 ぼやき漫才の第一人者として知られた故人生幸朗の相方でタレントの生恵幸子1954年に人生幸朗とコンビを結成。幸朗さんが世相やヒット曲の歌詞に文句をつけ、生恵がつっこむ「ぼやき漫才」のスタイルで人気を得た。82年に幸朗が亡くなった後は、テレビのコメンテーターなどをしていた。
1/31
■高橋揆一郎(作家)
31日、肺炎のため死去、78歳。告別式は3日午前10時から札幌市豊平区美園の美園斎場。喪主は妻。
 小説「伸予」(のぶよ)で1978年、芥川賞を受賞した。他に「観音力疾走」など。
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■リー・バーガー(米男優)
31日、米東部ニューハンプシャー州フレモントの療養施設で死去。同通信によると、88歳だが、1924年生まれとする資料もある。死因は不明。
 66年にテレビで初放映された「スター・トレック」や80年代に人気を集めた「ダイナスティ」など数多くの番組に出演する一方、舞台俳優としても活躍した。
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■シドニー・シェルダン(米作家)シカゴ生まれ
30日、肺炎による合併症のため、カリフォルニア州南部の病院で死去した。89歳。
 10歳で既に詩を書き始めていた。17歳でハリウッドに移り映画の脚本を書いた後、第二次大戦にパイロットとして従軍した。
戦後は映画脚本家として「独身者と女学生」(1947年)でアカデミー賞の脚本賞を受賞。ブロードウェーでミュージカルの脚本も手掛け「レッド・ヘッド」でトニー賞を受けた。 小説家に転じてからは「ゲームの達人」「真夜中は別の顔」などを発表し、人間の欲望や葛藤を交えた物語をスリリングに展開し、日本を含む世界各地でベストセラーを連発した。
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■デニー・ドハーティ(米ポップグループ「ママス・アンド・パパス」のメンバー) 
 19日、カナダ・ミシソーガの自宅で死去、66歳。
 2001年に死去したジョン・フィリップスを中心に結成され、1960年代後半に活躍した4人組グループ、ママス・アンド・パパスの1人。男女混声によるさわやかなハーモニーで「夢のカリフォルニア」「マンデー・マンデー」などの大ヒットを飛ばした。
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■井沢八郎(歌手)青森県
17日午後11時18分、食道がんのため東京都内の病院で死去、69歳。葬儀・告別式は八王子市山田町、八王子市斎場で。喪主は妻。
 63年に「男船」でデビュー。64年、集団就職した少年たちを題材にした「あゝ上野駅」が大ヒット、人気歌手の仲間入りをした。のびやかで張りのある歌声が魅力で、清酒のCMソングなどでも知られた。 長女は女優の工藤夕貴。
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■初代チョロ松(瞑想する猿)
14日、老衰で死んだ。29歳で人間なら約100歳という。晩年を過ごした阿蘇猿まわし劇場(熊本県南阿蘇村)で15日、弔われる。
 1987年、ソニー・ウォークマンのCMに「瞑想する猿」として出演、話題を呼んだチョロ松は「周防猿まわしの会」(山口県光市)に所属。同会によると、東京・代々木公園で大道芸をしていたところをスカウトされ、CM出演した。ウォークマンを手に直立し、うっとりと音楽を聞く表情が「進化したヒトを連想させるたたずまい」と言われ、CM大賞・最優秀スポット賞を獲得した。
 その後も全国を公演し、90年に引退。長年、一緒に芸をした村崎五郎は「感謝すべきパートナーだった。天寿を全うしてくれた」と話した。

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■マイケル・ブレッカー(米ジャズ・テナーサックス奏者)ペンシルベニア州フィラデルフィア
13日、白血病のためニューヨークで死去、57歳。
 トランペット奏者の兄ランディとバンド「ブレッカー・ブラザーズ」を、ベース奏者エディ・ゴメスらと「ステップス・アヘッド」を結成。ピアノ奏者ハービー・ハンコックやギター奏者パット・メセニーら著名ミュージシャンと数多くのレコードを制作し、グラミー賞を11回受賞した。

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■ジミー・チーサム(米ジャズ・トロンボーン奏者)アラバマ州バーミンガム
12日、米カリフォルニア州南部サンディエゴの自宅で心臓疾患のため死去、82歳。
 第2次大戦中、陸軍で音楽隊に所属した後、ニューヨークで音楽を学んだ。85年のデビューアルバム「スイート・ベイビー・ブルース」のほか、「ラブ・イン・ジ・アフタヌーン」などで知られる。

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■アリス・コルトレーン(米ジャズ音楽家)ミシガン
12日、呼吸器不全のため死去、69歳。
 サックス奏者故ジョン・コルトレーンと結婚後の66年には同氏のグループのメンバーとして来日公演。67年にコルトレーンが死去した後も、自らのグループを率いて音楽活動を継続。2004年には26年ぶりの新作を発表した。

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■カルロ・ポンティ(伊映画プロデューサー)イタリア・ミラノ
肺の合併症のためスイス・ジュネーブの病院で死去、94歳。家族が10日、明らかにした。
 40年ごろから映画製作を始め、50年に製作会社を創設。フェデリコ・フェリーニ監督の「道」のほか、「鉄道員」(ピエトロ・ジェルミ監督)、「ドクトル・ジバゴ」(デビッド・リーン監督)、「恋人たちの場所」(ビットリオ・デ・シーカ監督)などの名作を次々と生んだ。 妻は女優のソフィア・ローレン。
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■安藤百福(日清食品創業者会長)台湾生
5日午後6時40分、急性心筋こうそくのため大阪府池田市の病院で死去、96歳。葬儀・告別式は近親者だけで執り行う。社葬の日時や場所は未定、喪主は妻。
 大学在学中から台北と大阪で衣料会社を経営。48年に日清食品の前身、中交総社を設立し58年、即席ラーメン第1号の「チキンラーメン」を発売した。71年に容器入りスナックめん「カップヌードル」を出すなど、日清食品を業界最大手に育て上げ「ラーメン王」と呼ばれた。
81年に長男に社長を譲って会長に退いたが、商品開発など経営方針で対立し2年後に再び社長を兼務。仕事への熱意と一徹さを示す逸話は多い。
 二男に社長を託し会長に就任。インスタントラーメン発明記念館(池田市)を開いた。2005年6月に会長を退き、創業者会長に就任していた。
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■田中義三元受刑者(元赤軍派、日航機よど号ハイジャック事件で服役)熊本県
1日午前0時15分ごろ、肝臓がんのため千葉県内の病院で死去、58歳。葬儀・告別式は親族で行い、後日東京、大阪でお別れの会を開く。
 よど号事件で国外移送目的略取罪などが確定、熊本刑務所で服役していたが、病状が悪化し昨年12月15日に刑の執行を停止され千葉県の病院に入院していた。
70年3月、赤軍派メンバー8人とともに羽田発福岡行き日航機を乗っ取り、福岡空港と韓国・金浦空港で乗客を解放後、北朝鮮に入国。
96年3月にカンボジアで身柄拘束され、偽米ドル札を使ったとしてタイで起訴されたが無罪が確定。2000年に日本に引き渡された後、02年に東京地裁で懲役12年の判決を受け、東京高裁も控訴を棄却。03年6月に上告を取り下げ刑が確定した。