★1999年  ★2000年  ★2001年  ★2002年 ★2003年  ★2004年  ★2005年  ★2006年  ★2007年  ★2008年  ☆2009年

★1999年〜2007年
2001年【地球号を降りたあの人この人、気になる人々

 12/31
■旭 輝子(女優、俳優の神田正輝氏の母)
31日、心不全のため死去、77歳。
 松竹歌劇団、エノケン劇団に所属。映画、舞台、テレビドラマで活躍した。


12/29
■朝比奈 隆(最高齢の現役指揮者)東京都出身
 29日午後10時36分、老衰のため神戸市内の病院で死去。93歳。
10月下旬、名古屋市で開かれた演奏会の後、体調不良を訴えて入院していた。29日午後8時すぎに容体が急変し、家族に見守られながら息を引き取ったという。この夜は、2日間にわたる大フィル年末恒例のベートーベン第九交響曲の演奏会の初日だった。
昭和6年京都大学法学部を卒業。阪急電鉄に入社したが、2年後再び京都大学文学部に入学し、指揮法を亡命ロシア人のエマヌエル・メッテルに学んだ。昭和12年、指揮デビュー。22年に関西交響楽団を創立。関響が35年に大阪フィルとなってからも、音楽監督兼常任指揮者として大阪フィルを育て続けた。海外への客演は69楽団197公演に及ぶ。最近では平成8年、シカゴ交響楽団の招きで米国公演を成功させた。
 昭和44年紫綬褒章、51年芸術院賞、52年ドイツ連邦共和国功労勲章大十字章などを受賞、平成元年に文化功労者、6年には文化勲章を受けた。著書に『この響きの中に』『楽は堂に満ちて』など。
12/26
■ナイジェル・ホーソン(英シェークスピア俳優)
26日、ロンドン北郊ハートフォードシャーの自宅で心臓麻痺で死去、72歳。
1年半前からがんを患っていた。
 ロンドンやニューヨークのブロードウェーのほかテレビでも活躍。1999年には英国のロイヤル・シェークスピア・カンパニー(RSC)と日本の彩の国さいたま芸術劇場の共同制作で蜷川幸雄演出の「リア王」を演じ話題になった。
12/22
■加藤シヅエ(元議員)
22日午前8時56分、呼吸不全のため東京都文京区の親族宅で死去、104歳。
 資産家の長女として生まれ、女子学習院中等科卒業後、17歳で鉱山技師の旧華族と結婚。米国留学中の20年ごろ、女性解放の視点から産児制限運動を提唱したマーガレット・サンガー夫人と出会い、共鳴。帰国後、当時タブー視されていた避妊の普及に努める一方、婦人参政権獲得運動に力を注いだ。しかし「産めよ殖やせよ」の軍国主義の下で、治安維持法違反容疑で逮捕されるなど弾圧を受けながらも、離婚して労働運動家加藤勘十氏と再婚。46年、戦後最初の総選挙に社会党から出馬し初の女性衆院議員39人の1人となり、衆院2期参院4期を務めた。家族計画運動や女性の地位向上のため活躍した。
 この間、売春防止法や公害防止法などの成立に尽力。77歳で政界を引退した。
12/20
■南原宏治(俳優) 横浜市出身
20日午後3時10分、心不全のために都内の病院で死去、74歳。
95年にS状結腸がんを手術。いったんは病魔を克服し仕事に復帰したが、今年2月に十二指腸にがんが見つかり再手術。1度は退院したが、他臓器への転移が見つかり再入院していた。
 東大農学部をわずか1カ月で中退。50以上の職業を転々とした後「すぐに現金になる」と友人に聞いて芸能界入りした。54年に南原伸二の芸名で「神風特攻隊」でデビュー。60年に宏治に改名。「人間を創造できるのは神様と役者だけ」と俳優業にのめり込み、あくの強い敵役から二枚目まで幅広い役を演じた。男の色気を身に着けようと日本舞踊で女形修業もした。剣道3段、柔道2段の腕前。
12/19
■大辻 清司(写真家、筑波大名誉教授)東京都出身。
19日午前5時54分、脳出血のため東京都渋谷区上原の自宅で死去、78歳。
密戦後、シュールレアリスムを掲げて前衛芸術集団「実験工房」に参加。東京造形大、筑波大、九州産業大の教授を務め代表作にシリーズ「無言歌」など。来年1月に福岡アジア美術館で回顧展が予定されていた。
12/19
■ジルベール・ベコー(仏シャンソン歌手)仏南部ツーロン出身
18日、パリのセーヌ川に浮かべ生活していた自らの船の中でがんで亡くなった。74歳。
パリでナイトクラブのピアニストとして活躍した後、エディット・ピアフに歌手、作曲家としての才能を見いだされた。1954年のパリ・オランピア劇場での初のリサイタルは舞台にファンが殺到する大成功を収めた。「ナタリー」、ジャン・コクトーの死にささげた「詩人が死んだ時」など世界的にヒットしたシャンソンと水玉ネクタイがトレードマークの仏シャンソン歌手。
 シャンソンにスイングのリズムを取り入れた軽快な作品は、米ニューヨークのブロードウェーの舞台や日本でも人気を呼んだ。約400曲を作曲したうち20曲は特に古典として世界中で愛唱されている。
 がんに侵されながらも1999年には「いっしょにやらねば」を発表。家族によると、死の床で新アルバム「わたしの岬」を完成させたばかりだった。

12/16
■ロイ・ブロックスミス(米俳優)
16日、腎不全のためロサンゼルス郊外の病院で死去、56歳。
 90年のヒットSF映画「トータル・リコール」や「アラクノフォビア」「サイコ」(リメーク版)などに出演。「アリー・myラブ」「LAロー 七人の弁護士」などの米テレビシリーズでも活躍した。
ロサンゼルス郊外の自宅に設けた劇場で手作りの舞台を続け、ファンを楽しませた。
12/13
■小栗一也(俳優)
13日、肺炎のため死去、78歳。
 小劇場を経て映画、テレビで活躍。NHKの「バス通り裏」や民放の「太陽にほえろ!」などに出演。味のある脇役として親しまれた。
12/11
■千石剛賢(イエスの方舟主宰者)
死亡届が12日、居住地の福岡県古賀市役所に出されていた。78歳だった。死因などは不明。
1980(昭和55)年ごろに若い女性の集団失跡事件と騒がれた宗教集団イエスの方舟(はこぶね)の主宰者で、「千石イエス」と呼ばれた。
兵庫県加西市で刃物製造などの仕事をした後、60年に東京で「極東キリスト集会」を開き、75年にイエスの方舟と改称した。 このころから親子関係の悩みなどが原因で入信する若い女性が増え、メンバーは20人を超えた。信者は自宅を飛び出し共同生活を送っていたため、「娘を返せ」と迫る両親らとの間でトラブルが起こり、大きな社会問題となった。
 78年から約2年間、行方を捜す家族らを避け、東京から福岡まで信者らと全国を転々とした。この間、警察も捜査に乗り出し、家出人捜索のほか名誉棄損の容疑で千石氏の逮捕状を取るなどしたが、結局逮捕されなかった。80年以降は福岡市に移り、スナックで聖書の研究会を開く傍ら、一般市民の身の上相談に応じるなどの活動をしていた。
12/11
■王 恭子(プロ野球ダイエー王貞治監督夫人)東京都出身。
11日午後9時21分、東京都港区の虎の門病院で胃がんのため死去、57歳。
 1966(昭和41)年、巨人の主砲だった王選手と結婚。3女をもうけた
12/10
■ハインツ・レークナー(読売日本交響楽団特別客演指揮者)ライプチヒ出身。
10日、脳出血のためドイツ・ライプチヒ市内の病院で死去、72歳。
 ライプチヒ音楽院で学び、ライプチヒ放送交響楽団、ベルリン放送交響楽団の首席指揮者などを歴任。1984年から89年まで読売日本交響楽団の常任指揮者を務めた。
12/10
■江戸家 猫八(演芸家)東京都出身。
10日午前2時49分、心不全のため東京都青梅市の病院で死去、80歳。
 父親は初代江戸家猫八。1942(昭和17)年、召集され南方を転戦した後、広島で被爆。
49年に三代目猫八を襲名、鶏やコオロギなどの物まねを得意とした。
NHKの「お笑い三人組」などテレビでも活躍。被爆による体調不良を競歩で克服した努力家としても知られた。88年、紫綬褒章受章。このほか主な出演作に映画「お葬式」、テレビ時代劇「鬼平犯科帳」など。
12/7
■小松崎 茂(挿絵画家)東京都出身。
7日午後9時26分、心不全のため千葉県柏市の病院で死去した。86歳。
16歳で日本画を志したが、メカニック好きが高じて戦時中に戦艦、戦車などを題材とした挿絵画家に転身。戦後も少年雑誌の表紙や口絵、プラモデルのパッケージを中心に、戦記ものや未来世界を描いた数多くの作品を発表した。1940年代後半に大流行し、現在の劇画のルーツとなった“絵物語”でも「地球SOS」などの作品で人気作家の頂点に立った。多量の作品をこなし「画狂」「異能の画家」とも呼ばれた
12/1
■村松克己(俳優)埼玉県出身。
1日午前8時55分、胃がんのため埼玉県川越市の病院で死去、62歳。
 劇団黒テントの創立メンバーで、中核俳優として「セツアンの善人」など多くの舞台で活躍した。
12/1
■トーマス・タネンバウム(米映画・テレビプロデューサー)
1日、心不全のためロサンゼルス郊外の病院で死去、69歳。
 南北戦争を描いた映画「愛情の花咲く樹」(1957年)の製作に参加したほか人気テレビドラマシリーズ「新弁護士ペリー・メイスン」や「スパイ大作戦」の制作を手掛けた。
11/30
■グラディー・マーティン(米ギタリスト)
3日、病気のため米テネシー州の病院で死去、72歳。
10代から音楽活動を始め巧みなギター演奏で有名バンドに参加。ウィリー・ネルソン、ハンク・ウィリアムズなど往年のカントリー歌手やエルビス・プレスリー、ビング・クロスビーらと演奏を共にした。

11/30
■野平好男(元中央競馬調教師、騎手)
30日、肺炎のため死去、81歳。
 騎手として春秋の天皇賞や皐月(さつき)賞、桜花賞、菊花賞などを制し、昭和42年から引退する平成8年まで調教師として重賞3勝を挙げた。
11/29
■ジョージ・ハリスン(元ビートルズ)英中西部リバプール出身
29日午後1時半(日本時間30日午前6時半)、肺ガンのため米ロサンゼルスの友人宅で妻と息子に見守られながら死去。58歳。
1943年2月25日生まれ。56年、レノンとポール・マッカートニーらのバンドにギターで参加。リンゴ・スターを加えた全盛期のビートルズの中で最年少だった。ギター演奏はチャック・ベリーの影響を受けた。 インドの神秘主義に傾倒し、シタール演奏を学び、インド音楽を取り入れた曲も作った。宗教指導者の説話を聴くためメンバーを説得してインドに渡ったりもした。 控えめな性格で、レノンやマッカートニーの陰で思うように作品発表ができなかった。七〇年のビートルズ解散後に出したアルバム「オール・シングス・マスト・パス」でギタリスト兼ソングライターとして才能を証明。 その後もバングラデシュ難民救済コンサートの参加やリンゴ・スターとの共演、映画界進出など話題は尽きなかった。八七年にアルバム「クラウド・ナイン」で再び大ヒットを飛ばした。八八年には、ボブ・ディランらとトラヴェリング・ウィルベリーズを結成。ロックグループ部門でグラミー賞を受賞した。91年12月に親友のギタリスト、エリック・クラプトンらの協力を得て日本公演を実現させた。 66年にパティ・ボイドと結婚。その後離婚して78年、現在のオリビア夫人と再婚した。
 97年にのどのがん手術を受け、いったん完治したが、今年5月に肺がんを手術。さらに7月、スイスの病院で脳腫瘍の放射線治療を受けた。その後、死期が近いと英紙が報じたため「とても元気でいる」と病状を否定する声明を出した。
12月12日付の米ロサンゼルス・タイムズ紙は、元ビートルズのジョージ・ハリスンの死亡証明書に記載された死亡場所がロサンゼルスに実在しないと報じた。これまでロサンゼルスの友人宅で息を引き取ったとされてきただけに、ハリスンの死亡場所をめぐってなぞが深まっている。
 同紙によると、死亡証明書に記載されたロサンゼルスのビバリーヒルズの住所について、地元の郵便局や税務事務所に問い合わせたところ、実在しないことが判明。ロサンゼルス郡検視官事務所によると、証明書の虚偽記載が確認されれば軽犯罪に問われることもあるという。
11/29
■伊藤武郎(映画プロデューサー)
29日、肺炎のため死去、91歳。
 早稲田大を卒業後、昭和12年に東宝入社。退社後、独立プロを相次いで設立し「戦争と平和」「にごりえ」「あゝ野麦峠」などを制作した。
11/29
■水谷則博(プロ野球千葉ロッテ球団スカウト、元ロッテ投手)
29日、急性硬膜下しゅのため東京都内で死去、51歳。
 愛知・中京高から昭和44年に中日に入団。48年のシーズン途中にロッテに移籍し、左腕のエース格として通算476試合に登板、108勝111敗2セーブをマークした。63年に現役を引退し、ロッテのスカウトを務めていた。
11/26
■桂南治(落語家)
26日、肝硬変のため死去、54歳。
 昭和44年に二代目桂小南に入門。59年4月、真打ちに昇進した。
11/21
■ラルフ・バーンズ(米音楽家)
21日、肺炎に伴う合併症のためロサンゼルスの病院で死去、79歳。
 「キャバレー」(72年)、「オール・ザット・ジャズ」(79年)の映画音楽でアカデミー賞の歌曲編曲賞などを受賞。99年にはブロードウェー・ミュージカルの音楽構成でトニー賞を獲得した。
11/17
■ジェリー・ジェローム(米サックス奏者)
17日、白血病のためフロリダ州の自宅で死去、89歳。
 ニューヨーク生まれ。テナーサックス、クラリネット奏者として、30年代からグレンミラー・オーケストラ、アーティー・ショー・バンドなど一流楽団に参加。ベニー・グッドマンのバンドにも加わった。

11/17
■保井浩一(元プロ野球東映監督)京都市出身。
17日午後5時37分、心不全のため大津市内の病院で死去、80歳。
47年(昭和22年)から3年間、平安高校野球部監督。55年と60年は途中から東映で指揮を執った。
11/16
■トミー・フラナガン(ジャズピアニスト)ミシガン州デトロイト出身。
16日夜、動脈瘤(りゅう)による合併症のためニューヨーク市内の病院で死去。71歳。
1950年代半ば、友人のギタリストであるケニー・バレルとともにニューヨークに進出、その後、ジャズ界の巨匠ソニー・ロリンズやジョン・コルトレーンらと次々に共演して脚光を浴びた。 わき役に徹し、主役のサクソホン奏者や歌手の魅力をたっぷり引き出す演奏スタイルで知られ、エラ・フィッツジェラルドのピアノ伴奏を長年務めた。人気は米国でよりも日本での方が高く、昨年5月から6月にかけて大阪で演奏の来日公演では健在ぶりをアピールしたばかりだった。代表的なアルバムに「オーバーシーズ」や「ザ・トミー・フラナガン・トリオ」「スーパー・セッション」などがある。

11/15
■小林 悟(映画監督)長野県出身。
15日午前7時、ぼうこうがんのため東京都新宿区の病院で死去、71歳。
早大卒業後の54年、新東宝系列の近江プロに助監督として入社。59年に「狂った欲望」で監督デビュー。65年から71年までは海外を放浪。帰国した翌年からは、複数のペンネームを使い分けながらピンク映画を撮り続けた。「肉体の市場」は、劇場公開2日目で警視庁から摘発され「わいせつ容疑第1号監督」と呼ばれた。約700本の映画を監督し、12日には、来年迎えるピンク映画40周年記念作品を撮り終えたばかりだった。
11/15
■真崎秀樹(昭和天皇の通訳)佐賀県出身。
14日午後0時27分、前立腺がんのため東京都世田谷区上祖師谷の自宅で死去、93歳。
34年、外務省に入省。アフガニスタン大使などを歴任。四半世紀にわたり宮内庁侍従職御用掛として昭和天皇の英語通訳を務め、英国のエリザベス女王や歴代の米大統領らとの会見に立ち会った。2・26事件で青年将校を陰で率いたとされる真崎甚三郎元陸軍大将の長男。
11/14
■緑川 洋一(写真家)
14日、胃がんのため死去、86歳。
歯科医院を開業するかたわら1947年に秋山庄太郎氏らと写真グループ「銀竜社」を結成。“色彩の魔術師”と呼ばれ、数多くの賞を受賞した。写真集に「瀬戸内海」などがある。
11/11
■杉浦 忠(元プロ野球ダイエー監督、野球評論家)。愛知県出身。
11日午前、急性心筋こうそくのため滞在先の札幌市中央区のホテルで死去、66歳。
プロ野球OB選手によるマスターズ・リーグの試合のため札幌市に来ていた。
愛知・挙母高(現豊田西高)から入学した立教大では右下手投げ投手として、長嶋茂雄氏(前巨人監督)らとともに東京六大学野球リーグで活躍。58年に南海(現ダイエー)に入団し、いきなり27勝を挙げて新人王。翌59年の日本シリーズでは4連投4連勝の快投を演じ、巨人を倒した。
13年間の通算成績は187勝106敗。現役引退後は86年から南海、ダイエーで4シーズン監督を務めた。95年に野球殿堂入りした。
11/11
■西銘 順治(元沖縄県知事、元衆院議員)沖縄県出身。
10日午後6時9分、急性心筋こうそくのため那覇市の病院で死去、80歳。米軍統治下の沖縄で那覇市長、沖縄自民党総裁などを経て1970年、戦後初の沖縄国政参加選挙で衆院議員に当選。78年には沖縄県知事選挙で保守系として初めて当選し3期12年を務めた。93年には再び衆院選挙で当選したが、任期途中に病気で倒れ96年に引退した。参院議員の西銘順志郎は長男。
11/8
■大出俊(元社民党衆院議員)
8日午後零時10分、心不全のため横浜市の病院で死去。79歳。
ロッキード事件やリクルート事件で政府・与党を追及して「国会の止め男」の異名を取った元社民党衆院議員で元郵政相。1939年、早稲田高等学院を中退し鶴見郵便局に入局。全逓書記長、総評副議長などを経て、63年に旧社会党の公認で旧神奈川1区から初当選。主に衆院予算委員会で、構造汚職問題や外交、防衛政策などを取り上げ、政府や自民党の姿勢を追及、しばしば審議を中断させた。連続11期務め、同党国対委員長、副委員長などを歴任。94年には村山内閣で郵政相(現総務相)を務めた。
95年勲一等旭日大綬章。
11/8
■横山隆一(漫画家)高知市出身
8日午前1時4分、脳梗塞)のため、神奈川県鎌倉市の病院で死去した。92歳。
フクちゃん」などで知られた漫画界の最長老。1994年、漫画家として初の文化功労者に選ばれた。社会戯評で知られる漫画家の横山泰三は弟。 代表作は、ほかに「デンスケ」「百馬鹿」など。その漫画スタイルは故手塚治虫氏ら多くの漫画家に影響を与えた。晩年は油絵や水墨画を中心に描いて作品展を開き、2000年正月には地元、鎌倉市の鶴岡八幡宮に屏風を奉納した。
11/7
■左幸子(女優)
7日にがんのため東京都中央区の病院で死去していたことが10日、分かった。71歳。
1950年、東京女子体育専門学校卒。都立高校の教師をしながら俳優座に通う。52年「若き日のあやまち」で映画デビューした。56年、結核を病む少女と、無理心中を迫る半狂乱の女という二役を演じた「神阪四郎の犯罪」で新境地を開拓。64年の「飢餓海峡」では、誠実だが非命の娼婦役を演じ、国内の映画賞の女優賞を独占した。他に「幕末太陽伝」「にっぽん昆虫記」などがある。59年、映画監督の羽仁進と結婚し77年に離婚。映画監督でエッセイストの羽仁未央は長女。女優の左時枝は妹。
11/6
■原 六朗(作曲家)東京都出身
6日午後9時47分、下咽頭がんのため東京都杉並区の病院で死去、86歳。
自宅は杉並区成田東4−16−2。
 故服部良一氏に師事し、美空ひばりの「お祭りマンボ」を作詞作曲したほか、コロムビア・ローズの「プリンセスワルツ」などの作曲を手掛けた。映画「サザエさん」などの音楽も担当した。
10/30
■リチャード・スターン(米作家)
10月31日、米ニューメキシコ州サンタフェの自宅で病気のため死去、86歳。
1915年生まれ。59年に処女作「恐怖への明るい道」で米探偵作家協会のエドガー賞を受賞。74年に公開されたポール・ニューマン主演の映画「タワーリング・インフェルノ」の原作になった小説「そびえたつ地獄」のほか多くのサスペンス、ミステリー小説や短編を残した。
10/29
■藤原 雄(陶芸家)岡山県出身
29日朝、岡山県内の病院で死去した。69歳。
備前焼陶芸家で人間国宝。明治大学卒業後、父・啓氏(故人)の助手として備前焼を始めた。
1990(平成2)年芸術選奨文部大臣賞。96年、重要無形文化財保持者(人間国宝)に選ばれ、陶芸の分野で初の2代続けての人間国宝になった。
後進の指導にも力を注ぎ、91年と94年に「焼き締め陶公募展」の実行委員長を務めた。
10/16
■エッタ・ジョーンズ(米女性ジャズ歌手)サウスカロライナ州出身。
16日、がんのためニューヨーク・マンハッタンの自宅で死去、72歳。
ハーレムのアポロ劇場のアマチュア・コンテストで見いだされ10代でプロデビュー。オリバー・ネルソン、アール・ハインズらのバンドと共演した。1970年にはアート・ブレーキーらととも日した。情感あふれる歌い方で知られ、60年の「ドント・ゴー・ストレンジャーズ」は100万枚以上のヒット、グラミ ー賞候補にも2回なった。がんで苦しみながら最後まで活動を続け、死去した16日は新アルバムの発売日だった。

10/15
■張学良(「西安事件」の主役)
15日午後(台湾時間)、9月末に移住先のホノルルの病院に入院、肺炎のため死去。100歳。
日中戦争中の1936年12月、抗日のために共産党との内戦停止を求め、中国・西安で故蒋介石氏(当時国民政府主席)を幽閉した「西安事件」の主役。6月1日に100歳の誕生日を迎えたばかりだった。
1901年、中国東北地方の有力軍閥の張作霖の長男として遼寧省で 生まれた。日本の関東軍は28年、勢力拡大を目指して張作霖を爆殺。後継者となった張学良氏は当時の中国で指導的立場にあった国民党の蒋介石の指揮下に入った。関東軍が31年に満州事変で東北地方を支配下に置くと張氏は抗日を志したが、蒋介石は国内の中国共産党の掃討を優先し日本軍との 全面対決を回避。36年、張氏は西安入りした蒋介石を幽閉し、抗日に立ち上がるよう迫った。この「西安事件」を機に37年に国民党と共産党が抗日で結束する 第2次国共合作が成立、中国の主要勢力が団結して日本軍に対抗する態勢が整った。事件後、張氏は国民党政権によって軟禁などの形で半世紀余り自由を奪われた。台湾の李登輝政権下で自由を回復し、94年以降はハワイで暮らしていた。中国の江沢民国家主席は15日「中華民族の千古(永遠)の功臣」とたたえる弔電を家族あてに送った。
10/13
■13代今泉今右衛門(陶芸家・人間国宝)
3日午後4時26分、心不全のため佐賀県有田町赤絵町の自宅で死去。75歳。
1949年東京美術学校(現東京芸大)卒。75年に第13代今右衛門を襲名した。鍋島藩の藩窯で焼かれた「色鍋島」の伝統に、「薄墨」「吹墨(ふきずみ)」といった新技法を取り入れ、現代的な感覚を盛り込んだ作品を次々と発表した。日本工芸会理事などを歴 任。89年、人間国宝に認定された。代表作に「色絵手鞠花文鉢」 「色絵笹文鉢」など。
10/12
■俊藤浩滋(映画プロデューサー)
12日午前0時25分、肝不全のため京都市左京区の病院で死去、84歳。
東映の「日本侠客伝」「緋牡丹博徒」シリーズなど、任侠映画の生みの親と言われ、女優富司純子の父で、39年間の映画人生で289本の映画をプロデュースした。60年代に「緋牡丹博徒」「新網走番外地」「仁義なき戦い」などシリーズ映画を次々とヒットさせ、鶴田浩二、高倉健ら数々の映画スターを育てた。来年公開予定の「修羅の群れ」が遺作となった。
10/11
■秋野不矩(あきの ふく  日本画家、文化勲章受章者)静岡県天竜市出身
11日午前11時30分、京都府美山町和泉宝天頭70の自宅で死去。93歳。
1908年(明治41年)生まれ。26年に静岡県女子師範学校(現・静岡大学)を卒業後、京都に出て西山翠嶂に師事する。30年帝展で「野を帰る」が初入選。48年、上村松篁らと日本画の革新を目指した創造美術(現・創画会)を結成した。
62年インドのビスババーラティ大学(現・タゴール国際大学)の 客員教授となったのを機に、インドを主題とした作品を多く発表するようになる。雄大な自然を力強いタッチと新鮮な色使いで描き、独自の画風を確立した。代表作にガンジス川を描いた「ガンガー」など。91年、文化功労者。99年文化勲章を受章した。
10/11
■ハーバート・ロス(米映画監督)
9日ニューヨーク市内の病院で死去、74歳。死因は明らかにされていない。
1969年から95年にかけ25本の映画を監督。代表作に「チップス先生さようなら」(69年)、「愛と喝采の日々」(77年)、「グッバイガール」(同)などがある。
10/7
■稲葉幸夫(元中央競馬調教師)北海道出身。
7日午後3時50分、老衰のため都内の病院で死去。93歳。
1928年(昭和3年)に騎手となり、38年、JRA前身の日本競馬会が設立され、調教師の認可を受ける。騎手との兼業を例外で許され、44年まで兼務した。41年に自ら騎乗したテツバンザイでオークスに優勝。ヤマトキヨウダイ(64年天皇賞・秋、有馬記念)タケホープ(73年ダービー、菊花賞、74年天皇賞・春)を育て、ナスノチグサ、テンモンなどでオークスを5勝した。日本調教師会では副会長、関東本部長を務めた。通算1451勝(日本競馬会、国営競馬を含む)うち重賞50勝。89年2月28 日に調教師を引退した。
10/7
■ハーバート・ブロック(米・政治風刺漫画家)シカゴ出身。
7日、肺炎のためワシントン市内の病院で死去、91歳。
「ハーブロック」の筆名でワシントン・ポスト紙などを舞台に55年間にわたって政治風刺漫画を発表、同紙のウォーターゲート事件報道グループなどで3回のピュリツァー賞を受賞。
 ニクソン、レーガン両元大統領への厳しい批判で知られた。赤狩り時代に「マッカーシズム」という言葉を生んだのも同氏の漫画。
10/5
■マイク・マンスフィールド(元駐日米大使)
米東部時間、5日午前7時半(日本時間同日午後8時半)過ぎ、ワシントン市内の病院で死去。98歳。
アジアの専門家として歴代政権の外交政策に影響を与えるとともに、1977年から11年半にわたって駐日大使を務め、日米関係を「世界で最も重要な二国間関係」と位置づけ発展に尽くした。この夏に体調を崩し、9月7日に心臓にペースメーカーを埋め込む手術を受けた。いったん退院したが9月末に再入院していた。
10/5
■エミリエ ・シンドラー( オスカー・シンドラーの妻)
5日夕、療養中のベルリン郊外の病院で死亡。94歳。
スティーブン・スピルバーグ監督の映画「シンドラーのリスト」のモデルにもなったオスカー・シンドラーの事業や約千百人にのぼるユダヤ人の「救出作戦」をかげで支えた。 戦後はシンドラーと別居状態 となり、移住先のアルゼンチンで約40年にわたって独り暮らしをしていた。今年夏からドイツに滞在していたが卒中の 発作を起こし入院していた。
10/1
■ジョン・コリンズ(米ジャズギタリスト)米アラバマ州モンゴメリー出身。
4日、がんのため闘病生活を続けていたが、ロサンゼルス市内の病院で死去、88歳。
ナット・キング・コールと14年間演奏活動を共にした。ピアニストの母が率いるバンドで演奏活動を始め、その後ニューヨークでロイ・エルドリッジやアート・テイタムらと共に活動した。1951年にコールのグループに参加、65年にコールが亡くなるまで共に演奏した。その後は自らのグループを結成して欧州ツアーを行うなどの演奏活動を続けた。
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古今亭志ん朝(落語家)東京出身
1日午前10時50分、肝臓がんのため東京都新宿区矢来町の自宅で死去。63歳。
葬儀・告別式は6日、東京都文京区大塚の護国寺桂昌殿。喪主は妻聖子さん。
夏の北海道巡業で体調を崩し、8月下旬から高座を休んで治療に専念していた。
写実的で緻密な人間描写に秀で、独特のスピード感が持ち味だった。古典を従来通り踏襲するのではなく、新しい命を吹き込んだ名手といわれていた。得意演目は「富久」「火焔太鼓」「品川心中」など。
96年には、落語協会副会長に就任。二つ目勉強会を運営し、後進の育成にも熱心だった。1938年(昭和13年)3月10日生まれ。名人・五代目古今亭志ん生の次男として誕生。 兄は故金原亭馬生。女優の池波志乃は姪にあたる。 最初は役者志望だったが、大学受験に失敗し浪人しているときに父の強い勧めで落語家を目指すようになる。 1957年、父に入門して古今亭朝太で初高座を踏む。 59年に二ツ目、62年に真打ちに昇進し二代目古今亭志ん朝を襲名する。 異例といえる入門から5年目での出世だった。 古典落語の第一人者として、正月の寄席ではほとんどトリをつとめる実力派である。 72年芸術選奨文部大臣賞。75年放送演芸大賞。80年ゴールデンアロー芸能賞と受賞多数。 元日劇ダンシングチームに在籍していた聖子夫人とは69年に結婚。
志ん朝さん 納棺  肝臓がんのため、1日に63歳の若さで死去した落語家・古今亭志ん朝さんの納棺式が2日午後1時すぎから東京都新宿区矢来町の自宅で、親族、一門だけでしめやかに執り行われた。
 一番弟子の志ん五がひげをそり、聖子夫人と一門傘下のマジシャン・松旭斎美智が最後のまくら化粧。旅支度は純白の手甲脚半にタビ、さんずの川の渡し賃入れなど。志ん朝さんの長姉・美津子さん(77)や、めいの女優・池波志乃(46)と俳優の中尾彬(59)、 直弟子らが涙で着せる中、父の五代目古今亭志ん生が眠る文京区小日向の菩提寺、環国寺の小林邦彦住職の読経が響く。
 そして納棺。梅蔦の家紋入り黒紋付きにはかまを着せられ、愛用の眼鏡や、今年6月のドイツ旅行で使用した独和辞典、62年3月の真打ち披露「朝太改め三代目古今亭志ん朝」の時の高座扇子や手ぬぐい、出囃子「老松」 のテープなどが納められた棺が閉じられると、部屋中からすすり泣きが漏れた。
 祭壇も設けられ、雑誌「トランヴェール」昨年12月号での対談に使用されたお気に入りの黒に茶の細い帯が巻かれた帽子をかぶった写真が遺影として飾られた。
 そんな中「寄席を休んじゃいけないよ」の志ん朝さんの教えを守り、一門の相談役・志ん駒は新宿・末広亭、志ん五は上野・鈴本、 志ん輔は池袋演芸場などに向かった。弟子たちが「師匠、行ってきます」と涙をぬぐい、聖子夫人が「行ってらっしゃい」と応える姿 が、また涙を誘った。
 通夜は5日午後6時、落語協会葬として営まれる葬儀・告別式は6日正午から、いずれも東京都文京区大塚5―40―1、護国寺桂昌殿=(電)03(3941)0764=で。葬儀委員長は三遊亭円歌落語協会会長。喪主は妻聖子さん。(スポーツニッポン)
関係者によると、今年7月下旬の北海道巡業でかぜをひき、8月13日に都内の病院に入院。精密検査 で、末期の肝臓がんと分かったが、同20日まで浅草演芸ホールでの高座があり、病院から通った。高座で 顔色は悪く、本人も「声が出なくなってきたので、迷惑がかかるだろうか」と気にしたが、休まなかった。
 高座を終えた同23日、都内のがん研究会付属病院に転院する際、聖子夫人ががんであることを告げた。 末期までとは言わなかったが「あっ、そうか」と淡々と受け止めたという。この時、弟子たちだけに事実が 伝えられたが、周囲は持病の糖尿病の悪化かと思っていた。9月23日に、病院から帰宅を勧められ、自宅に戻った。点滴も外し体力は日に日に弱くなったが、大好 きな日本酒は楽しんだ。この日午前8時に容体が悪化、最後は眠るようだった。
「老松」の出囃子で粋に登場し、天性の明るさとリアルな人間描写、スピード感あふれる口調で、古典落語の登場人物に血が通った。「噺に新しい息吹を吹き込むつもりで、毎日が修業です」。 名横綱双葉山と飲み比べしてぶっ倒れたという、破天荒で天衣無縫の名人志ん生とは違い、志ん朝さんはち密で完ぺきな話芸を目指した。若手を育てるために「二ツ目勉強会」も開催した。後輩たちから「朝(ちょう)さま」と敬意をもって呼ばれ、だれもがその才能を認めたが、志ん生の名跡 は継がぬまま旅立った。

9/28
■猪熊功(東海建設社長、1964年東京五輪柔道重量級金メダリスト)
28日午後7時すぎ、東京都新宿区内の同社社長室で腹部などを刃物で刺して死亡していたことが29日、分かった。63歳。
社長室で血を流して倒れているのを社員に発見されたが、遺書があったことから、警視庁新宿署は自殺とみている。猪熊は小柄ながら、一本背負いなど多彩な技で一時代を築き、柔道が初めて五輪競技になった東京五輪で頂点に立った。
9/22
■アイザック・スターン(米・世界的バイオリニスト)ウクライナ出身
22日、ニューヨーク市内の病院で心不全のため死去。81歳。
1920年ウクライナ・クリミニエツ生まれ。1歳の時、米サンフランシスコに移住。8歳でバイオリンを始め、15歳でデビュー。43年、カーネギーホールでのリサイタルで大成功、一躍、世界の注目を浴びた。60年に同ホール理事長に就任。経営難から一時、取り壊しの危機もあったが、ニューヨーク市による買い上げを実現させた。80年代以降は若手の育成に力を入れ、バイオリンの五嶋みどり、諏訪内晶子やチェロのヨーヨー・マらに指導、助言。昨年9月、80歳を祝うコンサートがカーネギーホールで開かれ、五嶋やマらも演奏を披露した。53年以降度々、日本を訪問。96年から宮崎で開かれている国際室内楽音楽祭に毎年参加し、今年5月も元気な姿を見せていた。
9/19
■米森麻美(元日本テレビアナウンサー)
19日死去していたことが分かった。34歳。詳しい死因は不明。
平成元年に日本テレビに入社。「ルックルックこんにちは」の司会などを担当。一時は同局の女性アナウンサー3人で歌手グループを結成した。結婚、退社後もフリーアナウンサーとして活動していた。
9/12
■菊原初子(邦楽界最長老で、地歌箏曲演奏家の人間国宝、)大阪市出身
12日午後10時35分、肺炎のため大阪市天王寺区の病院で死去した。102歳。
谷崎潤一郎の地歌の師匠だった菊原琴治の長女。地歌は江戸時代初期、人々の喜怒哀楽を入れたはやり歌に、三味線と琴の伴奏を付けて生まれ、上方を中心に発展した。菊原さんは、その地歌の保存に情 熱を注いだ父と祖父に幼少のころから琴や三味線の指導を受けた。谷崎は、目の不自由だった父親の世話をする菊原さんの姿を見て、名作「春琴抄」のヒントにしたといわれている。
野川流三弦本手組歌全曲、生田流箏曲組歌全曲を伝承する演奏家として昭和54年、重要無形文化財保持者(人間国宝)に指定された。
9/12
■ 鏡味仙之助(太神楽曲芸師)
12日、胃がんのため死去、52歳。自宅は東京都台東区根岸2の2の12。
鏡味仙三郎とコンビを組み、昭和53年に芸術祭優秀賞を受賞、55年に東京都無形文化財に指定された。

9/10
■橘家文蔵(落語家)
10日午前9時52分、心不全のため都内の病院で死去、62歳。
55年8代目林家正蔵(彦六)門下となり、68年真打ちになった。得意ネタは「井戸の茶碗」など。今月23日に上野・鈴本演芸場で行われる、たった1人の弟子文吾改め橘家文左衛門(39)の真打ち昇進披露公演に師匠として並ぶのを楽しみにしていたが、かなわなかった。

9/9
■相米慎二(映画監督)  盛岡市出身
9日午後4時すぎ、肺がんのため、神奈川県内の病院で死去。53歳。
昭和55年、「翔んだカップル」でデビュー。二作目の「セーラー服と機関銃」が大ヒットを記録した。カメラの「長回し」手法を多用し、俳優から深い情感を引き出す演出に定評があった。60年には「台風クラブ」で東京国際映画祭ヤングシネマ部門で大賞を受賞。その後も「お引越し」(芸術選奨文部大臣賞)、「あ、春」 (ベルリン映画祭国際批評家連盟賞、キネマ旬報ベストテン日本映画作品賞)などの名作を次々と発表。今年一月公開の「風花」が遺作となった。親族の話によると、今年6月から肺がんのため入院していたという
9/7
■石山弘(漫画家)
7日、肺炎のため死去、69歳。自宅は東京都杉並区天沼2の11の22。
新潟日報や北海道新聞、西日本新聞などで政治漫画を描いていた。
9/4
■萩元晴彦(テレビマンユニオン創立者)長野県出身
4日午後7時、脳梗塞め、東京都新宿区の国立国際医療センターで、71歳。
大型ドキュメンタリードラマの開拓者で、音楽プロデューサーとしても活躍した。
昭和28年、早大文学部を卒業後、ラジオ東京(現・TBS)入社。ドラマやドキュメンタリー番組を制作し45年に退社後は、日本の番組制作会社の草分けになったテレビマンユニオンを設立、ドキュメンタリー「海は甦る」や「遠くへ行きたい」「オーケストラがやってきた」などの人気番組を手がけた。また、音楽に深い造けいがあり、サントリーホール、カザルスホールなど東京都内のコンサート専用ホールのプロデュースも手がけた。平成10年の長野五輪では総合プロデューサーとして開会式や閉会式を担当、内外の話題を集めた。
9/2
■クリスチャン・バーナード(世界初の人間の心臓移植手術執刀医)
2日、休暇先のキプロス・パフォスのホテルで心臓発作のため死去した。78歳。
ケープタウン大卒業後、心臓外科医となり、1967年12月、ケープタウンで交通事故死者の心臓を五十代の患者に移植。一定の成功を収めたが、患者は手術から19日目に肺炎で死亡した。当時、動物 実験などで世界に先駆けていた米国ではなく南アフリカで初の心臓移植が行われたことは世界に衝撃を与えた。
9/2
■トロイ・ドナヒュー(米俳優) ニューヨーク州出身
2日、心臓病のため米カリフォルニア州サンタモニカの病院で死去、65歳。
957年に映画デビューし、59年、ラブロマンス「避暑地の出来事」の主役を演じ注目を集めた。60年代前半に 「二十歳の火遊び」「恋愛専科」「パームスプリングの週末」などの 青春・恋愛映画に出演、ブロンドと甘いマスクの二枚目として人気を得た。大林宣彦監督の映画「漂流教室」(昭和62年)にも外国人教師役で出演した。
9/2
■畑山博(芥川賞受賞作家) 東京都出身
2日午前零 時15分、肝不全のため神奈川県横須賀市の病院で死去。66歳。
高校中退後、旋盤工などさまざまな職業を経て、執筆活動に入る。NHK教育テレビの「若い広場」の台本、構成を担当した。昭和47 年、青年の鬱屈した思いを描いた小説「いつか汽笛を鳴らして」で第67回芥川賞を受賞。主な作品に「狩られる者たち」「母を拭く夜」「海に降る雪」など。教育者としての宮沢賢治に私 淑、「教師 宮沢賢治のしごと」などの著書がある。社会派小説や若者論で知られた。
9/1
■石堂清倫(社会思想研究家、翻訳家)
1日、老衰のため死去、97歳。
旧制四高時代にマルクス主義に触れ、東京帝国大で新人会に参加。 日本共産党入党後、昭和3年「三・一五事件」で検挙。その後、編集者、満鉄調査部などを経て、18年満鉄事件で再検挙された。戦後はマルクスやレーニンの著作を翻訳し、イタリア共産党のグラムシの思想も紹介。主な著書に「わが異端の昭和史」「中野重治と社会主義」など。
9/1
■ 岩下久美子(フリージャーナリスト)
1日午後、タイ西部プーケット島で高波にさらわれ、
水死した。41歳。
ストーカー問題などを追及してきた岩下さんは、自立する女性らを扱った新著「おひとりさま」(中央公論新社)の出版が8日に決まり、出版日を前に夫とともに8月30日から休暇を取っていた。夫のテレビ局社員、木庭民夫さん(43)によると、海辺で遊んでいた際に深みにはまり、高波にさらわれ、救出されたが、病院に向かう途中で死亡した。
8/28
■山尾三省(詩人)
28日、胃がんのため鹿児島県上屋久町一湊2418の38の自宅で死去、62歳。
昭和42年に東京・国分寺のコミューン運動「部族」に参加し、無農薬野菜の販売などを手がけた。52年には屋久島に移住して詩作・文筆活動を続けた。主な著書に「聖老人」「屋久島のウパニシャッド」など。
8/24
■フィリップ・レオタール(フランス俳優・歌手)
25日、呼吸不全のため、パリの病院で死去。60歳。1940年フランス南東部ニース生まれ。大学卒業後、哲学教師を経て俳優となり、約70本の映画に出演。82年の「愛しきは、女 ラ・バランス」で国内映画の最高峰セザール賞主演男優賞を受賞。シャンソン歌手、詩人としても活躍した。弟のフランソワ・レオタール下院議員は93−95年にフランス国防相。8/24
■ジェーン・グリーア(米映画女優) ワシントン出身。
24日、がんによる合併症のため米ロサンゼルスの自宅で死去、76歳。  カーク・ダグラスと共演した映画「過去を逃れて」(1947年)の演技で注目され、「仮面の報酬」(49年)などに出演。84年には「過去を逃れて」をリメークした「カリブの熱い夜」にゲスト出演した。
8/23
■キャスリーン・フリーマン(米女優)
23日、肺がんのためニューヨークの病院で死去、78歳。
シカゴ生まれ。映画、舞台、テレビの数多くの喜劇作品に出演し、性格俳優として長く活躍した。ブロードウェーで上演中のミュージカル「フル・モンティ」でピアニスト役を演じ、今年のトニー賞で助演女優賞にノミネートされた。主な出演作に、大ヒットしたミュージカル映画「雨に唄えば」(52年)、「ブルース・ブラザース」(80年)など
8/22
■ジェラルド・ゴードン(米俳優)
17日、肺気しゅのため死去、67歳。
60年代から70年代を中心に「ザ・ドクターズ」「ナイトライダー」「ダラス」など数々のテレビドラマシリーズで活躍、人気を得た。映画俳優としても「40ポンドのトラブル」(62年)、「テロリズムの夜」(88年)などへの出演で知られる。
8/22
■白鳥信一(映画監督)
22日、食道がんのため死去、73歳。
日活に入社し、ロマン・ポルノ作品やテレビドラマの演出を手掛けた。代表作は宮下順子さん主演の「赤線最後の日」 。妻はシナリオライター、白鳥あかね。
8/20
■ウォルター・リード(米俳優)
20日、じん不全のため、カリフォルニア州サンタクルーズの自宅で死去、85歳。
旧日本軍の真珠湾攻撃を描いた「トラ トラ トラ!」(1970年) に出演したほか、アカデミー賞に輝いた「西部開拓史」(62年)や「騎兵隊」(59年)などジョン・フォード監督の西部劇映画で好演した。
8/19
■草壁久四郎(映画評論家、プロデューサー)
19日、心不全のため死去、81歳。
米公文書館に保管される被爆資料フィルムを基にした原爆記録映画「予言」や、「彫る・棟方志功の世界」などの作品を製作。カンヌ、ベルリンなどの国際映画祭で審査員を務めた
8/19
■高原須美子(前プロ野球セ・リーグ会長で元経済企画庁長官)
19日、悪性リンパ腫のため、入院先の東京都内の病院で死去。68歳。
初の民間女性閣僚をはじめ、日本体育協会会 長、セ・リーグ会長など各分野で「女性初」の歴史を刻んできた。00年8月に皮膚病の難病である菌状息肉腫と診断入院。同11月、任期満了を前にセ・リーグ会長を退任し、公職から離れて療養生活を送っていた。
8/19
■ドナルド・ウッズ(南ア紙の編集者)南アフリカ・トランスカイ(現・東ケープ州)出身19日、二年前からがんで闘病生活を続けていたが、ロンドン近郊の病院で死去。67歳。南アフリカのアパルトヘイト(人種隔離)を告発した映画「遠い夜明け」の原作者で、白人の元新聞編集者。友人の黒人解放闘争指導者スティーブ・ビコが1977年に獄死した後、アパルトヘイトの残酷さを告発するため英国に亡命。ウッズ氏のノンフィクションは87年に映画化されて全世界に反響を呼び、アパルトヘイト崩壊の一因になったとされる。両氏の友情を描いたこの映画では、ケビン・クラインがウッズ氏を演じた。
8/18
■ジャック・エリオット(米アカデミー賞作曲家)
18日、脳しゅようのため、カリフォルニア州の自宅で死去、74歳。
「刑事スタスキー&ハッチ」「チャーリーズ・エンジェル」など人 気テレビドラマをはじめ、映画やミュージカルのテーマ曲の作曲を手掛け、アカデミー賞を数回受賞した。
8/12
■ピエール・クロソウスキー(フランスの作家、画家) ポーランド出身
12日、パリの自宅で死去、96歳。詳しい死因は明らかにされていない。
1905年ポーランドの元貴族の家に生まれ、幼少時から詩人リルケや作家ジードらと親交。カフカ、ニーチェらの翻訳を手掛けたほか、 サディズム研究の第一人者として知られた。俳優としてもブレッソン監督らの芸術映画に出演した。
2月に死去した具象画の巨匠バルテュスの兄で、自身もたびたび絵画の個展を開いた。
8/10
■竹地盛治(東洋太平洋スーパーウエルター級王者)香川県琴南町出身
死亡推定時刻10日午前1時ごろ、香川県琴平町「こんぴらさん」表参道で
自殺。24歳。参道の手すりにひもをくくりつけ、首をつっているのを通行人が見つけ琴平署に通報。署員が駆けつけた時には、すでに死亡していた。外傷がないことや、現場の状況から自殺と断定したが、遺書などはなかった。現場は名所「こんぴらさん」の表参道、土産物店が並ぶ路地の用水路付近。鉄さくに直径12ミリの綿ロープを掛け、首をつっていたという。竹地さんはボクシングのトレーニングの1つとしてお客さんをかごに乗せ、この表参道の長い石段を上る仕事をしていた。前日9日も元気に仕事をこなす姿が目撃されている。昨年7 月、同級暫定王座に就き、今年5月の統一戦に勝ち正王者となったばかり。日本ジム所属選手でタイトルを 保持する現役選手が自ら命を断ったのは初めて。ボクシング界に衝撃が走った。

8/9
■青柳裕介(漫画家)高知県出身
9日、肺炎で死去した。56歳。
中学時代に漫画をかき始め、板前をしながら67年に「いきぬき」でデビュー。77年から「ビッグコミック」誌にカツオ漁師を主人公にした「土佐の一本釣り」シリーズを約15年間にわたって連載、この作品で80年に小学館漫画賞を受賞した。今年2月から同誌に「まぐろ土佐船」を連載中だった。デビュー以降、出身地の高知県内に住み、不器用な男とそれを支える女にこだわる漫画をかき続けた。99年、がんの手術を受け、自宅で療養中だった。
8/8
■萩原吉太郎(実業家)
8日午後2時14分、慢性呼吸不全のため東京都新宿区の病院で死去。98歳。
26年に慶大を卒業後、三井グループの中心的な存在だった三井合名に入社。40年にグループ内の北海道炭砿汽船(北炭)に移った。55年に社長に就任。札幌テレビ放送の設立にも参画した。故児玉誉士夫氏らとも親交を結び、「政商」とも呼ばれ、故三木武吉氏や故河野一郎氏、故鳩山一郎氏ら政治家と交流を持った。81年、死者93人を出した北炭夕張新鉱事故などを理由に北炭会長を辞任した。
73年、勲一等瑞宝章を受章。60年6月から7月にかけ、日本経済新聞に「私の履歴書」を連載した。
8/6
■ラリー・アドラー(米ハーモニカ奏者)メリーランド州ボルティモア出身
6日夜、がんなどのためロンドンの病院で死去、87歳。
1936年、ジョージ・ガーシュインの「ラプソディー・イン・ブルー」での演奏で高い評価を獲得。第二次世界大戦中にはアフリカや中東の米軍を慰問し、演奏とともに人種差別反対を訴えた。戦後、エルトン・ジョンら世代を超えたスターと共演、「キング・オブ・ハーモニカ」と称賛された。

8/6
■野平祐二(元騎手、調教師)千葉県出身。
6日午前9時27分、肺炎のため千葉県市川市の東京歯科大学市川総合病院で死去。73歳。戦後の日本競馬界を代表する騎手、調教師。“ミスター競馬”の異名を持ち、長年日本競馬の発展に貢献してきた。1944年、16歳で騎手デビュー。華麗な騎乗で人気を博し、通算1339勝。69年には名馬スピードシンボリとのコンビで、フランスの凱旋門賞などの大レースにも出場するなどし、日本競馬の国際化のさきがけとなった。75年から調教師に転じ、GIレース7冠馬のシンボリルドルフを育て、昨年、調教師を引退した。
8/5
■小野忠弘(現代美術作家)
5日、急性心不全のため死去、88歳。
昭和13年に東京美術学校(現東京芸術大)彫刻科卒業後、図画教諭となった。同35年のベニス・ビエンナーレ展に出品した作品「アンチプロトン」で国際的な評価を受け、米ライフ誌上で「現代美術分野の世界の7人」に選ばれた。
8/4
■樫村治子(朗読家)
4日、心筋梗塞のため死去、83歳。
NHKラジオ番組「私の本棚」で昭和24年から42年まで朗読を担当し、人気を集めた。
8/3
■苅田久徳 (元野球監督)
3日午前10時45分、老衰のため横浜市磯子区洋光台の自宅で死去。90歳。
法大時代に名遊撃手として活躍後、1934(昭和9)年に大リーグ選抜と対戦するため編成された全日本メンバーに選出された。35年に巨人の米国遠征に参加し、36年にセネタース入り。プロでは主に二塁を守った。その後、大和や東急(現日本ハム)などで選手兼監督として手腕を発揮し、51年に実働12年間の現役を引退。通算成績は804試合に出場して打率・219。69年に野球殿堂入りした。
8/2
■宝 とも子(ラテン歌手)
2日午前5時27分、肺炎のため埼玉県熊谷市の病院で死去、79歳。
宝塚歌劇団を経て戦後、「セ・シ・ボン」「ベサメ・ムーチョ」などをヒットさせ、NHK紅白歌合戦にも出場。「ラテンの女王」と呼ばれ、一大ブームを巻き起こした。65年には日本ラテン音楽協会を創設し、会長を務めた。

7/28
■山田風太郎(作家)兵庫県出身
28日午後5時30分、肺炎のため東京都内の病院で死去。79歳。
東京医科大在学中、「達磨峠の殺人」でデビュー。「眼中の悪魔」「虚像淫楽」で1949年の探偵作家クラブ賞を受 賞した。「甲賀忍法帖」がヒット作となり、忍法小説ブームを巻き起こした。その後「警視庁草紙」など明治ものにも進出。「戦中派不戦日記」「人間臨終図巻」などで独自の人間観を示した。2001年1月に日本ミステリー文学大賞を受賞した。
7/20
■諸井 薫(作家)東京都出身。
20日午後6時5分、肝不全のため死去、70歳。早稲田大学文学部中退。昭和三十二年、河出書房に入社、「週刊女 性」を創刊し、編集長。「家庭画報」「プレジデント」の編集長を務め、いずれも飛躍的に部数を伸ばした。プレジデント社社長や中央公論社最高顧問なども歴任。著書には「男の流儀」「男の止まり木」「男女の機微」などがある。
7/18
■ミミ・ファリーニャ(米フォーク歌手)カリフォルニア州出身。
18日、肺がんに伴う合併症のため、米サンフランシスコ近郊の自宅で死去、56歳。
フォーク歌手ジョーン・バエズの妹。60年代に夫(故人)とフォークデュオ「リチャード・アンド・ミミ・ファリーニャ」を組み、数々のヒットを飛ばした。74年に非営利る慈善活動を続け、ジャクソン・ブラウンらも参加した 団体「ブレッド・アンド・ローゼズ」を設立。刑務所や医療施設を訪問して音楽を聴かせ。
7/15
■岩川隆(作家) <自宅は東京都杉並区浜田山4の21の16>
15日、脳幹出血のため死去、68歳。
広島大卒業後、故梶山季之氏に師事してジャーナリストに。創刊時 の「週刊文春」などを舞台に週刊誌全盛時代を築く。ノンフィクション作家として独立、政治、経済、社会、競馬など幅広い守備範囲で活躍、著書多数。小説「海峡」で直木賞候補。雑誌「正論」に連載した「孤島の土となるとも−BC級戦犯裁判」で講談社ノンフィクション賞を受賞した。
7/13
■青木一雄(元NHKアナウンサー)
13日、じん不全のため死去、84歳。
NHKの人気番組「とんち教室」「ヂェスチャー」の司会などを務 めた。

7/7
■フレッド・ニール(米フォーク歌手)
7日、米フロリダ州の自宅で死亡しているのが見つかった。64歳。がんを患っていた。37年、フロリダ州生まれ。50年代後半からプロ活動を始め、65年に発表したデビューアルバム「ブリーカー・アンド・マクドゥガル」がヒット。自在なギター演奏と独特のボーカルでフォーク界に地位を築いた。アカデミー賞作品賞などに輝いた名作映画「真夜中のカーボーイ」(69年公開)でハリー・ニルソンが歌った主題歌「うわさの男」も作曲。(時事)
7/7
■トニー・パゴット(伊・漫画家、カリメロの作者)
7日ミラノで死去、80歳。
1963年、兄弟の故ニーノ・パゴット氏と一緒に、頭に殻をかぶった黒いひよこのキャラクター「カリメロ」を作り上げ、テレビやコマーシャルで一躍有名になった。日本ではアニメとして74−75年に放映され、新シリーズが92年に再放映された。旧カリメロはひよこの女の子プリシラに片思いする話で人気者となり、その後の新カリメロでは筋書きも変わり、登場キャラクターも増えた。(共同)
7/8
■市村羽左衛門(歌舞伎俳優、人間国宝、芸術院会員、文化功労者)
8日午後11時32分、肺がんによる呼吸不全の為、千代田区三井記念病院で死去。84歳。大正5年7月11日生まれ。父親は六代目尾上菊五郎の弟、六代目坂東彦三郎。昭和30年に大名跡の十七代目市村羽左衛門を襲名した。師事した名優、六代目菊五郎が昭和24年に亡くなると、故尾上梅幸、故尾上松緑らと菊五郎劇団を支えてきた。堅実な芸風と地味な性格で知られる。近年は「勧進帳」の弁慶「馬盥(ばだらい)」の光秀、「合邦(がっぽう)」の合邦などの大役を手がけた。いずれも年輪を重ねた深い芸境をのぞかせ、高い評価を受 けた。歌舞伎を後世に伝えることが使命と、ご意見番として若手の指導に意欲を燃やし、“歌舞伎博士”ともいわれた。
7/5
■ジョージ・ドーソン(米作家)
5日、米テキサス州ダラスの自宅で死去、103歳。今年2月から健康がすぐれなかった。1898年、テキサス州生まれ。幼少から黒人労働者として働き、綿摘みなどに従事。98歳で初めて読み書きを学び、昨年、小学校教師と共著で自叙伝「ライフ・イズ・ソー・グッド」を出版し率直な語り口で反響を呼んだ。日本でも今年5月「101歳、人生っていいもんだ。」の題名で出版された。(共同)

7/4
■加藤幸三(スイングジャーナル社長)
4日、虚血性心疾患のため死去、76歳。
ジャズ専門誌「スイングジャーナル」創刊(昭和22年)の中心メンバーの一人。25年10月号から発行人となり、30年6月から社長を務めていた。

7/4
■江川 卓(ロシア文学者)東京都出身 <自宅は杉並区荻窪1-8-29>
4日午前9時13分、気管支炎のため東京都杉並区の浴風会病院で死去。74歳。
ドストエフスキーをはじめロシアを代表する作家の翻訳で知られるロシア文学者。東大法学部卒。ロシア文学者の父を持ち、戦時中に独学でロシア語を習得。戦後は翻訳、文学研究に取り組んだ。訳書にドストエフスキー「罪と罰」「カラマーゾフの兄弟」、ソルジェニーツィン「イワン・デニーソヴィチの一日」、パステルナーク「ドクトル・ジバゴ」などがあり、数多くのロシア文学を日本に紹介した。東京工大名誉教授。

6/30
ジョー・ヘンダーソン(米ジャズ・テナーサックス奏者)オハイオ州出身
6月30日、心不全のため米サンフランシスコで死去、64歳。
1937年4月24日オハイオ州出身。62年にニューヨークに進出してから頭角を現し、フレディ・ハバード、ハービー・ハンコックと共演して話題に。71年には来日し日野晧正らと演奏した。グラミー賞に4度輝き、代表的なアルバムは「ラッシュ・ライフ」「ミュージング・フォー・マイルス」など。98年に脳卒中を患胃、演奏活動から離れていた。

6/27
■ジャック・レモン(米映画俳優)
27日午後10時ごろ、がんによる合併症の為、南カリフォルニア大学病院で死去。76歳。1925年、米ボストン生まれ。ハーバード大学在学中、演劇を志した。第二次大戦中は海軍少尉で、除隊後、ニューヨークへ。テレビ、ラジオドラマ500本以上に出演。54年、映画界入りし、55年「ミスタア・ロバーツ」の海軍少尉役でアカデミー助演男優賞を受賞した。59年に「お熱いのがお好き」でビリー・ワイルダー監督と出会う。ユーモアの中に人生の悲哀を感じさせる独特のキャラクターがワイルダー作品に欠かせないものとなり、二人で「アパートの鍵貸します」「あなただけ今晩は」などの名作を生んだ。73年、「Save the Tiger」でアカデミー主演男優賞を獲得。80年ごろからは「チャイナ・シンドローム」などで重厚な演技を見せていた。
6/27
■トーベ・ヤンソ(「ムーミン」のシリーズの作者)ヘルシンキ出身
27日、フィンランド国内で死去。。86歳。死因は不明。
空想の生きものとして知られるフィンランドの童話・絵本作家。
1914年、ヘルシンキで彫刻家の父と画家の母の間に生まれた。25歳の時に、「ムーミン」を主人公とした物語を書き始め、以後「ムーミン谷の11月」(70年)まで多くの作品を残した。ムーミントロール、ムーミンパパなどが自由におおらかに生きる世界をユーモラスに描いた一連のシリーズは、日本語を含む三十四カ国語に翻訳されている。国際アンデルセン賞作家賞(六六年)など数々の賞を受賞し た。
6/23
■コリンヌ・カルベ(米女優)フランス出身
23日、脳出血のため死去、76歳。生まれ。
ハリウッド映画で活躍。主な出演作に、「夫(ハズ)は偽物」(51年)、ジョン・フォード監督の「栄光何するものぞ」(52年)、ディーン・マーチンと共演の「底抜け艦隊」(同)、「遠い国」(54年)がある
6/22
■広沢駒蔵(浪曲師、浪曲親友協会副会長)
22日、大腸がんのため死去、69歳。
ケレン読み(こっけい浪曲)の第一人者。「水戸黄門漫遊記」などを得意とした。昭和24年、二代目広沢駒蔵に入門。46年、三代目を襲名。朝日放送ラジオの「おはよう浪曲」の司会を昨年まで14年間務めた。
6/17
■金井 大(俳優)
17日、肺炎のため死去、74歳。
 新藤兼人監督の「第五福竜丸」「竹山ひとり旅」などの映画や、テレビ「大岡越前」「雲のじゅうたん」などで渋いわき役として活躍。舞台では「小林一茶」「はなれ瞽女(ごぜ)おりん」などに出演した。
6/16
■蔵忠芳(俳優)
13日、肝臓がんのため死去、45歳。
小学生時代に子役として活躍。昭和40年「アッちゃん」に主演したほか、42年「コメットさん」にも出演した。
6/10
■ヤルタ・メニューイン(指揮者ユーディ・メニューイン氏の妹、ピアニスト)
10日、ロンドンの自宅で死去、79歳。
ユダヤ系ロシア人の子供として米国で生まれた。幼少時から神童として騒がれた兄で指揮者、バイオリニストのユーディ・メニューイン(1999年死去)ともたびたび共演。ステージでは「兄と異なり、楽しむために演奏している印象を与えた」(英紙)という。ショパン、モーツァルト、メンデルスゾーンを得意とした。
6/10
■伊藤宏(元丸紅専務)
10日、心不全のため死去、74歳。
ロッキード事件の代名詞ともなった「ピーナツ領収書」の署名者で、昭和51年、故田中角栄元首相への贈賄罪などで起訴。62年の二審で懲役2年、執行猶予4年の判決を受け、上告せず に確定していた。
6/6
■地井佐和子(元女優の真木沙織、俳優・地井武男妻)
6日、乳がんのため死去、61歳。
「劇団四季」研究生を経て、女優デビュー。NHKテレビ「信子とおばあちゃん」(昭和44年)などに出演、テレビを中心に活躍した。
6/6
■中村正也(写真家、元日本広告写真家協会会長)
6日、心不全のため死去、75歳。
新聞社などを経て広告写真の世界へ。銀座・和光などのウインドーディスプレーで知られるほか、女性像、サラブレッド、風景など多彩な被写体を手掛けた。作品集に「電信お玉」「スペイン 炎の喝采」などがある。
6/6
■シュザンヌ・シフマン(フランスの映画脚本家)
6日、パリで死去、71歳。
1960年、ヌーベルバーグの旗手とされるフランソワ・トリュフォー監督の「ピアニストを撃て」でスクリプター(記録係)となり、同監督やジャンリュック・ゴダール監督の作品で脚本を担当した。代表作に「終電車」や「アメリカの夜」「隣の女」などがある。
6/4
■ジョン・ハートフォード(米フォーク歌手、バンジョー奏者)ニューヨーク出身
4日、米テネシー州ナッシュビルの病院で死去、63歳。
死因は明らかにされていないが、長年、がんで闘病生活を送っていた。
作曲した「ジェントル・オン・マイ・マインド」は1967年、カントリー歌手グレン・キャンベルが歌って全米で大ヒット。自らも67年度のグラミー賞を2部門で受賞した。76年度にも同賞に輝いた。
5/17
■アンソニー・クイン(米・アカデミー賞助演男優賞俳優)
3日午前9時半、肺炎などのためボストン市内の病院で死去。86歳。
メキシコのチワワでアイルランド人の父とメキシコ人の母の間に生まれた。カリフォルニア州ロサンゼルスに移住し、ボクサーなどを経て21歳でスクリーンにデビュー。「革命児サパタ」(1952年)でアカデミー賞助演男優賞を初めて獲得したのに続き、56年にもゴーギャンを演じた「炎の人ゴッホ」で二度目の受賞。「野性の息吹き」(57年)や「ナバロンの要塞」(61年)、「その男ゾルバ」(64年)、「アラビアのロレンス」(62年)などでも好演した。90年には心臓のバイパス手術を受けていた。十三人の子供がいる。
5/17
■團伊玖磨(文化功労者、作曲家、指揮者、随筆家)東京都出身
17日午前1時40分(日本時間同2時40分)、心不全のため旅行先の中国・蘇州市の病院で死去。77歳。
東京音楽学校(現東京芸大)作曲科卒業後の昭和21年、NHKの専属作曲家となり、劇伴音楽やラジオ歌謡で活躍した。25年には交響曲第一番イ調でNHK管弦楽懸賞の特選を獲得して注目を集めた。27年にはオペラ「夕鶴」が毎日音楽賞など数々の賞を受賞作曲家としての地歩を確立した。
作曲活動はオペラから交響曲、管弦楽曲、歌曲、合唱曲、映画音楽など広範囲にわたるが、中心を占めるのはオペラ。中でも「夕鶴」は外国語の訳詞で欧米や中国でも上演され、上演回数は世界中で600回を超える。
34年の皇太子殿下、美智子妃殿下(天皇、皇后両陛下)のご成婚 時には「祝典行進曲」を、平成5年の皇太子殿下、雅子妃殿下のご成 婚時には「新祝典行進曲」をそれぞれ作曲。結婚の儀当日のパレードで演奏された。
祖父は三井合名会社の理事長を務め、昭和7年の血盟団事件で右翼の凶弾に倒れた男爵、團琢磨氏。
5/13
■ジェーソン・ミラー(米国の俳優、ピュリツァー賞受賞の劇作家)ニューヨーク出身
13日、心不全のためペンシルベニア州スクラントンの自宅で死去、62歳。
大学卒業後に俳優などとして活動。バスケットボールチームのコーチと選手の再会を描いた劇「ザット・チャンピオンシップ・シーズン」(1972年)がブロードウェーで上演され、 ピュリツァー賞、トニー賞に輝いた。大ヒットのホラー映画「エクソシスト」(73年)では悪魔払いを行う神父役を演じた。
5/12
■ペリー・コモ(米・歌手)
12日、米フロリダ州の自宅で死去した。88歳。
死因は不明だが、近年、健康状態が悪化していたという。1912年、ペンシルベニア州でイタリア移民の両親の下に生まれた。十歳の時から理髪店で働き、理髪師となったが、33年、友人の勧めで受けたオーディションに合格して楽団専属歌手となり、プロの音楽の道に。45年に「時の終わりまで」が自身初のミリオンセラーになるなどヒット曲を放ち、フランク・シナトラやビング・クロスビーと並ぶスター歌手の仲間入りを果たしたヒット曲に「アンド・アイ・ラブ・ユー・ソー」「星を見つめないで」「パパはマンボがお好き」「テンプテーション」などがある。58年に「キャッチ・ア・フォーリング・スター」でグラミー賞(最優秀男性ボーカル)を受賞。
 
5/10
■デボラ・ウォーリー(米女優) コネティカット州出身
10日、食道がんのためアリゾナ州で死去、59歳。
映画「ヤング・ハワイ」(1961年)のギ7ジェット役で小柄な体とビキニ姿が人気を呼んだ。70年代にかけて青7春娯楽映画に多数出演した。代表作に「スキー・パーティー」(65年)7など。
5/3
■ビリー・ヒギンズ(米ジャズ・ドラマー)ロサンゼルス出身
3日、じん臓不全などのためカリフォルニア州の病院で死去、64歳。
50年代後半、フリージャズの第一人者となっ たアルトサックス奏者のオーネット・コールマンと共演して、その名を知られる存在となった。その後、ジョン・コルトレーン、セロニア ス・モンク、ソニー・ロリンズら数多くのミュージシャンとの共演やレコーディングに参加するなど、第二次大戦後のジャズ界で最も多くの録音を残したドラマーの1人といわれる。

4/28
■ケン・ヒューズ(米映画監督・脚本家)イギリス・英リバプール出身
28日、米ロサンゼルス近郊の病院で、アルツハイマー病の療養中に死去、79歳。
奇妙な発明家と空飛ぶポンコツ車が活躍するファンタジーミュージカル映画「チキ・チキ・バン・バン」(1968年)で監督・脚本を務めた。67年に封切られた007シリーズのパロ ディー映画「カジノロワイヤル」にも、監督の1人として参加した。
4/29
■古今亭右朝(落語家)東京都出身
29日午前5時21分、肺がんのため東京都立川市の病院で死去、52歳。
1971年日本大学芸術学部卒業、1975年古今亭志ん朝に入門、1977年芸名「古今亭志ん八」で前座、1980年志ん八のまま二つ目昇進、1988年8人抜きの抜擢により真打ち昇進、昭和時代最後の真打ち「古今亭右朝」となる。第14回NHK新人落語コンクール最優秀賞、1991年国立劇場「花形演芸会」金賞&大賞受賞。
4/28
■蔦文也(徳島県立池田高校野球部監督)
28日、肺がんのため徳島・池田町の病院で死去。77歳。
監督就任20年目の1971年(昭和46年)夏に甲子園初出場。「さわやかイレブン」旋風を巻き起こし、金属バット採用後は「山びこ打線」の異名を取るパワー野球で高校球界に革命を起こした。監督として春2度、夏1度の甲子園制覇を遂げ「攻めダルマ」と呼ばれた。92年3月、40年間の監督生活引退を決意し野球部顧問を務めていたが、ここ数年は体調を崩して入退院を繰り返していた。

4/22
■秋元松代(劇作家)横浜市出身
24日午前10時47分、肺がんのため神奈川・鎌倉市内の病院で死去。90歳。
「近松心中物語」などの作品で知られ、古典や各地の伝説に材を取り、現代の抑圧された民衆像を雄大なスケールで描き出すのを得意とした。1979年(昭和54年)初演の「近松心中物語」(蜷川幸雄演 出)が大ヒット。その後何度も再演された。25日まで東京・明治座で平幹二朗(67)主演で上演されている。ほかの主な作品は「常陸坊海尊」「七人みさき」「かさぶた式部考」など。79年、紫綬褒章受章。
4/22
■野口伊織(ジャズ喫茶経営)
22日、脳腫ようで死去、58歳。
慶大時代からジャズにのめり込み、60年代から東京・吉祥寺で「ファンキー」などの店をオープン、全国に広がったジャズ喫茶ブームの草分け的存在に。その後も東京都内でライブハウスなど17店を経営、名物オーナーとして知られた。(朝日新聞)

4/21
■ジャック・ヘイリー・ジュニア(米映画プロデューサー兼俳優、女優のライザ・ミネリの元夫)
21日、病院で呼吸不全のために死去、67歳。
映画「キャバレー」(1972年)でアカデミー主演女優賞を得たミネリと74年に結婚し、5年で離婚。父親のジャック・ヘイリーも俳優で、ミネリの母、ジュディー・ガーランドが主役を演じた名作「オズの魔法使い」(39年)にブリキ人形役で出演した。
4/20
■ジュゼッペ・シノーポリ(指揮者)イタリア・ベネチア出身
20日夜、ベルリンのベルリン・ドイツ・オペラ(DOB)でヴェルディ作曲の「アイーダ」を指揮中に心臓発作で倒れ、死亡。54歳。
シノーポリは第三幕で、エチオピアの王の娘、アイーダがエジプの武将ラダメスと巡り合う場面で突然倒れた。劇場専属の医師や観劇していた医師が蘇生術を施したが、そのまま息を引き取った。同氏は国際的な指揮者で日本にもゆかりの深く、精神医学と人類学の博士号を持つ幅広い教養に裏打ちされた、知的で生命感あふれる演奏で知られる。各国トップのオーケストラやバイロイト音楽祭での指揮をしたほか、東京芸術劇場のこけら落としでは、十日間にわたりマーラーの交響曲全曲と主要な声楽作品を演奏した。1992年から独ドレスデンのザクセン州立歌劇場管の音楽監督を務めていた。この日の演奏は、先に亡くなったDOBのゲッツ・フリードリヒ総監督を追悼するものだった。シノーポリ氏は一度、同オペラの首席指揮者に就任したが、フリードリヒと衝突し、演奏活動をほとんど行わずに辞職した経緯がある。
4/16
■大原直美(デューク・エリントン楽団専属歌手)
19日、肝臓がんのため死去、54歳。
桜美林高校・桜美林短期大学英文科卒。そのダイナミックで華麗なステージと歌唱力は本場アメリカで絶賛される。デューク・エリントンの息子マーサー・エリントンに認められ、1991年より今世紀最高峰のジャズ・ビッグ・バンド、デューク・エリントン楽団唯一の専属シンガーとしてアメリカを中心にヨーロッパ、ブラジル等世界中の公演ツアーを精力的に行っている。
9年に乳がんと診断されたが、手術せず11年までステージに立ち続けた。

4/16
■小島三児(コメディアン)東京足立区出身
16日午後7時16分、腎不全のため両国の同愛記念病院で死去。62歳。
高校卒業後、コメディアンの佐山俊二に弟子入り。1965年(昭和40年)に故東八郎さん、原田健二とともにトリオ・スカイラインを結成。1拍間を外すボケ役で笑いをとった。解散後は俳優として活躍、黒沢明監督の「どですかでん」に出演するなど、映画、ドラマの名脇役として活躍した。
4/16
■河島英五(歌手)
16日午前3時22分、肝臓疾患のため大阪府東大阪市の病院で死去。48歳。
東大阪市出身。高校時代にフォークグループ「ホモサピエンス」を結成。75年のデビューアルバム「人類」に収録した「酒と泪と男と女」がグループ解散後に大ヒットした。代表作はほかに「元気だしてゆこう」、歌手として「野風増(のふうぞ)」「時代おくれ」など。91年にはNHK紅白歌合戦に出場。役者としてNHK朝の連続テレビ小説「ぴあの」「ふたりっ子」にも出演した。1月末に風邪をこじらせ、消化器系の傷による吐血で入院。3月中旬に退院して仕事に復帰し、4月14日も大阪市内でトークショーをこなしたが、15日朝に再び吐血し入院してい た。
4/15
■重吉(国内最高年齢カバ)
15日午後10時ごろ、老衰のため死んだ。推定年齢は53歳。
名古屋市千種区の東山動物園で飼育されていたオスのカバで、人間でいえば推定で100歳を超える長寿で、国内最高齢のカバだった。
重吉は1954年に同園に来たメスのカバ「福子」と「結婚し、57年以降オス6頭、メス13頭の19頭の子を福子との間にもうけた。カバの出産数の日本記録だった。現在、国内の動物園にいる計53頭のカバのうち約6割が重吉と福子の子孫にあたるといわれ、やしゃごも誕生している。福子は97年8月に47歳で死んだ。
4/14
■勅使河原宏(生け花草月流第3代家元、映画監督)
14日午前11時45分、急性リンパ性白血病で死去。74歳。
主な監督作品は「砂の女」(カンヌ映画祭審査員 特別賞)、「利休」(モントリオール映画祭最優秀芸術賞)など。80年に草月流家元を継承した。
4/14
■三波春夫(歌手) 新潟県出身
14日午後4時5分、前立腺がんのため、都内の病院で死去。77歳。
16歳で浪曲学校に入学し、浪曲師としてデビュー。44年に召集されて中国へ。敗戦後はシベリアで4年間の抑留生活を送った。49年帰国し、57年に歌手デビュー。「チャンチキおけさ」「船方さんよ」で一躍流行歌手になった。「大利根無情」「俵星玄蕃」といった浪曲調の歌謡曲を生み出し、芝居と歌謡ショーを合体させて長期公演する歌手芝居の先駆けとなるなど、新しい試みにも挑んだ。64年の「東京五輪音頭」がミリオンセラーになったのに続き、70年大阪万博のテーマ曲「世界の国からこんにちは」も大ヒット。浪曲で鍛えられた伸びのある歌声と明るい笑顔で人気を集め、高度経済成長期のシンボル的存在になった。83年、25周年記念リサイタル「放浪芸の天地」で芸術祭優秀賞、86年には紫綬 褒章を受章した。お客様は神様です」の名文句で国民的歌手として活躍。1994年(平成6年)にがんの告知を受けたが病気を隠して仕事をこなした。
4/14
■田久保英夫(芥川賞作家)東京都出身
14日午後4時7分、食道がんのため、渋谷区の東海大病院で死去。73歳。
中学時代に詩作を始め、慶大在学中から「三田文学」の編集にかかわった。卒業後、詩、 小説、放送台本など幅広い創作活動を始め、朝鮮戦争の最中に米軍キャンプでアルバイトした経験を基に、隣国の戦争に苦しむ青年を描いた「深い河」で、1969年(昭和44年に芥川賞を受賞、現在は芥川賞の選考委員を務めていた。主な作品に「髪の環」「辻火」(川端康成賞受賞作品)、「海図」「しらぬひ」。
4/12
■ハーベイ・ボール(ピースマーク考案者)
12日、米マサチューセッツ州で死去、79歳。
「社員にやる気を出させる図柄を」と保険会社に依頼され、63年に黄色の笑顔マークを考案、平和の象徴として世界中で流行した。バッジなど関連商品は爆発的に売れたが、商標登録をしなかったため収入はデザイン料はたったの45ドルだった。

4/11
■ハリー・シーカム(英コメディアン)
11日、がんのため英南部の病院で死去、79歳。
1949年から11年間続いたBBCラジオのお笑い番組「グーン・ショー」に出演し、戦後の復興期に国民的な人気を得た。その後はテノール歌手へと活躍の場を広げ、81年にナイトの称号を与えられた。
大ファンだったチャールズ皇太子は「生涯にわたり多くの人に楽しみと幸せな笑いを与えてくれた」と死を惜しむ声明を出した。

4/7
■デビッド・グラフ(米映画俳優)
7日、心臓発作のため訪問先のアリゾナ州で死去、50歳。
オハイオ州出身。コメディー映画「ポリスアカデミー」シリーズで、むやみに銃を発砲する警官のタックルベリー役を務めた。
4/7
■ベアトリス・ストレート(米女優)
7日ロサンゼルスで死去、86歳。死因は明らかにされていない。
シドニー・ルメット監督映画「ネットワーク」(’76)でアカデミー助演女優賞獲得。
35年にブロードウェーで舞台デビュー。第2次大戦後、映画にも進出し「尼僧物語」(59年)「ポルターガイスト」(82年)などに出演した。
4/7
■並木路子(歌手)台湾出身
7日午後11時ごろ、心筋梗塞のため渋谷区の自宅で死去。79歳。
8日、自宅ふろ場で倒れているのを家族が発見した。
松竹歌劇団の出身で、昭和十八年に「御代の春」で歌手デビュー。20年に製作された戦後第一号の映画「そよかぜ」の挿入歌「リンゴの唄」を歌って人気を呼び、翌年発売のこの曲のレコードが爆発的に売れて、代表作になった。サトウハチロー作詞の「リンゴの唄」は、並木さんの屈託のない歌声によって、戦後のすさんだ人々の心を慰め、明日への希望を与えた。今も懐メロとして根強い支持を保っている。並木さんには青森県のリンゴ対策協議会から感謝状や、長野県の市民団体から「リンゴの女王章」が贈られた。

4/7
■馬場のぼる(漫画家)青森県三戸町出身
7日午前6時、胃がんのため練馬区小竹町1の26の3の自宅で死去。73歳。
1949年(昭和24年)に上京し、翌年に野球漫画の「ポストくん」でデビュー。「ブウタン」「ポコタン」など、ほのぼのとしたタッチで知られた。14年間にわたって日本経済新聞に「バクさん」を連載。創作絵本でも活躍し「きつね森の山男」「こんにゃく物語」などを発表した。特に、猫を主人公にして人間社会のエゴを描いた「11ぴきのねこ」シリーズは67年の出版以来、シリーズ6冊で315万部を記録した。日本漫画家協会賞文部大臣賞、ボローニャ国際児童図書展エルバ大賞などを受賞。95年(平成7年)には紫綬褒章を受章した。関係者によると、8年ほど前からがんを患い、数回の手術を行った。それでも創作への意欲は衰えることはなく、今月3日には遺作となった「ぶどう畑のアオさん」(こぐま社)を完成させた。直後に体調を崩し、6日に「ぶどう畑―」の校正を終えた後、7日早朝に「苦しむことなく、眠るように」息を引き取ったという。
4/2
■暉峻康隆(国文学者、早大名誉教授)鹿児島県
2日午後4時14分、呼吸不全のため東京都世田谷区の自宅で死去していたことが、18日分かった。93歳。遺志により葬儀は近親者で済ませ、発表を控えていた。
早大文学部卒。同助教授などを経て、昭和23年教授。専門は近世文学で、中でも西鶴の研究者として知られ、「定本西鶴全集」「西鶴−評論と研究」などで大きな足跡を残した。研究は俳句、落語などにもわたり、率直、軽妙な語り口でエッセーやテレビ出演もこなし、近世文学との付き合い方を広く紹介し、近年の江戸文化ブームの礎を築いた。女子大生が急増した30年代半ば、「女子学生亡国論」を唱え、物議を醸したこともある。ほかの著書に「元禄の演出者たち」「日本人の笑い」「落語入門」「落語の年輪」など。

3/31
■六代目中村歌右衛門(歌舞伎役者)
31日午後6時47分、慢性呼吸不全のため世田谷区岡本の自宅で死去。84歳。
「女形の至宝」と称され、天性の気品と美ぼうに加え、役の心理を深く表現する演技力は、世界でも絶賛された。映画やテレビドラマに一切出演せず、舞台だけに役者人生を刻んだ。約5年前から体調が思わしくなく入退院を繰り返していたが、芸の伝承に情熱を燃やし続けた。戦後の歌舞伎界で頂点を極めた人間国宝、文化勲章受章者。
3/29
■ジョン・ルイス(米ジャズピアニスト・作曲家) イリノイ州出身
31日付のニューヨーク・タイムズ紙などによると、29日に死去、80歳。
死因は明らかにされていない。日本でも高い人気を博したグループ「モダン・ジャズ・カルテット(MJQ)」の中心メンバーとして活躍したほか、ディジー・ガレスピー、チャーリー・パーカー、レスター・ヤングらジャズ界の大物と共演した。
1945年に軍を除隊後、ニューヨークに移りガレスピーの楽団に参加。52年にビブラホン奏者のミルト・ジャクソンらとMJQを結成した。バッハの強い影響を受け、MJQでは音楽監督としてジャズにクラシックの要素を取り入れた。代表作の「ジャンゴ」「東経2度西経3度」はジャズのスタンダードナンバーとなっている。(時事)

3/28
■藤本二三代(歌手)東京都出身
28日午後8時15分、大動脈かい離のため神戸市内の病院で死去した。64歳。
1956年(昭和31年)に「花の十九よさようなら」でデビュー。58年に「夢見る乙女」が大ヒットし、4年連続で紅白出場。愛らしい笑顔で「純情歌手」の愛称で人気を集め、NHK「紅白歌合戦」に4年連続で出場した。

3/27
■児島襄(作家)東京都出身
27日午前11時41分、脳こうそくのため東京都世田谷区の病院で死去。74歳。
東大法学部卒。学生時代から東京裁判の法廷に通い、共同通信社に入社。外信部記者を経 て退社、作家として独立した。
「太平洋戦争」で毎日出版文化賞。「天皇」「満州帝国」「戦艦大和」など第2次大戦を テーマに執筆を続けた。全集に「児島襄戦史著作集」など。1990年(平成2年)に菊池寛賞、93年に紫綬褒章・元横綱審議委員会委員。
3/26
■土屋統吾郎(映画監督)岐阜県出身
24日午後0時9分、急性じん不全のため渋谷区の日赤医療センターで死去、65歳。 昭和33年に新東宝に入社。38年退社後、フリーとなり、「飛び出せ!青春」を制作し青春ドラマブームの先駆けとなったほか、「太陽にほえろ!」「サインはV」「噂の刑事トミーとマツ」などのヒット作を手掛けた。
3/22
■奈良本辰也(歴史家、元立命館大教授)山口県出身
22日午後6時24分、肺炎のため京都市左京区の病院で死去、87歳。
51年(昭和26年)に刊行した「吉田松陰」は、松陰再評価のきっかけに。「高杉晋作」「武士道の系譜」など、幕末・維新期の群像に光をあてた多数の著作を残した。

3/20
■小山田健一(元ヤクルト捕手)山形県出身
20日午後3時、胃がんのため川崎市高津区の帝京大学付属溝の口病院で死去、50歳。1969年(昭和44年)から10年間、東映(現日本ハム)とヤクルトに選手として在 籍。現役引退後は背番号91を付けヤクルトのブルペン捕手を務めた。

3/17
■新珠三千代さん(女優)奈良県出身
17日午後8時35分、心不全で死去、71歳。
今月10日、下半身の痛みを訴え入院、腰椎椎間板(ようついついかんばん)ヘルニアの手術を受けた後、意識が戻らなかった。仕事と私生活をはっきりと区別する人で、仕事が終わるとすぐに自宅に戻る生活だった。プライベートを全く明かさず、独身のまま生涯を終えた。
13歳で宝塚音楽歌劇学校入学。初舞台は46年「グラナダの薔薇」。かれんな美ぼ塚を退団。日活に入社して映画女優として活躍、月丘夢路、北原三枝とともに看板スターに。57年に東宝に移籍。59年スタートの6部作「人間の条件」でブルーリボン助演女優賞。東宝「社長」シリーズも数多く出演。テレビ界に進出して66年のNET(現テレビ朝日)「氷点」、日本テレビ系「細うで繁盛記」で人気を決定づけた。舞台も「細雪」の二女は当たり役。実妹は元女優の桂典子

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■杉浦明平(作家、評論家)
14日午後6時23分、脳こうそくのため愛知県の病院で死去、87歳。
戦前、東大在学中に立原道造らと同人雑誌を発刊。戦後、地元渥美町の町議を務め、この 体験を基に地方政治を風刺した「ノリソダ騒動記」は新スタイルの記録文学として評判に。「小説渡辺崋山」で毎日出版文化賞。イタリアルネサンスの研究でも知られた。

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■井田真木子(ノンフィクション作家)神奈川県出身
14日午後11時すぎ、東京都新宿区の病院で死去、44歳。
同日夜、自宅で倒れていたのを知人が発見された。死因は不明。
91年、女子プロレスの実態やレスラーたちの素顔に迫った「プロレス少女伝説」で大宅壮一ノンフィクション賞。93年、中国残留孤児2世を追った「小蓮の恋人」で講談社ノンフィクション賞。ほかに「同性愛者たち」などの著書がある。

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■上村松篁(、文化勲章受章画家、京都市立芸大名誉教授)
11日午前0時3分、心不全のため京都市の病院で死去。98歳。
日本画壇の重鎮。美人画で知られ、女性で初めて文化勲章を受章、映画「序の舞」のモデルともなった上村松園の長男として生まれた。1921年(大正10年)帝展に初入選。帝展・日展を主な舞台に発表を続けたが、戦後間もなく日展を離れ、在野団体「創造美術」を結成。以降もその流れをくむ「新制作協会」「創画会」の中心作家として活躍した。美人画一筋で「二階のお母さん」と呼んでいた母と は対照的に、生涯、鳥や花との“対話”を楽しみ、自然の美しさを愛した。「星五位」で芸術選奨文部大臣賞、「樹下幽禽」で日本芸術院賞を受賞。

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■花沢徳衛さん(俳優)東京出身 1911年(明治44年)
7日午前10時59分、前立腺がんのため、東京都渋谷区の病院で死去。89歳。
小学校を5年で中退、家具職人の道を目指して修業し、32年(昭7)に花沢美術家具研究所を設立した。大阪で油絵を学んだ後、36年、京都のJ・Oスタジオ付属俳優養成所に入所。37年、「権三と助十」でデビュー。映画「真空地帯」「蟹工船」などで性格俳優として注目される。49年フリーになり、50年に東京映画俳優協会を組織した。絵画の腕はプロ級で、75年には初の個展を開き、美術展への入選経験もある。著書は「花沢徳衛の恥は書き捨て」など。1966年(昭和41年)のNHK「おはなはん」の祖父役で全国的な人気を得た。その一方、テレビや映画での刑事役としても、いぶし銀の演技をみせた。55年、映画「終電車の死美人」に甲田刑事役で出演。これが「警視庁物語」としてシリーズ化されると、6作目から最後の25作目まで、たたき上げのベテラン刑事の役で出演、映画「八つ墓村」では磯川警部を演じた。最近では、映画「釣りバカ日誌3」「豪姫」のほか、女優石田ひかり(28)が主演した92年(平成4年)のNHK連続テレビ小説「ひらり」で、鳶(とび)の頭役、深川金太郎を演じた。長男役の銀次(石倉三郎)との丁々発止のやり取りが人気を呼んだ。97年のNHK「こら、なんばしよっと3」が、最後の出演作になった。 ひょうひょうとした庶民的な人柄で親しまれる一方、映画「八つ墓村」の磯川警部など刑事役でも人気を集めた。

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■久和ひとみ(ニュースキャスター)東京都出身。
1日午前11時25分、急性肝不全のため武蔵野市の武蔵野赤十字病院で死去。40歳。
7早稲田大学政経学部卒業後、テレビ朝日系「CNNデ7イウオッチ」、TBS系「ニュースの森」などのニュースキャスターを務めた。平成8年から二年間、米コロンビア大学東アジア研究所の客員研究生として国際関係論(日米比較)を学び、帰国後は再びテレビニュースキャスターとして活躍。本紙料理面にも、食に関するエッセーを執筆するなど、多彩な才能で知られていた。昨年10月に体調を崩しニュース番組を降板。子宮がんの手術を受け 復帰を目指していたが、先月末に容体が急変した。

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■竹腰 美代子(健康体 操指導者)神奈川県出身。
1日午前4時40分,膵臓がんのため渋谷区の日本赤十字社医療センターで死去、70歳。
昭和29年からNHKの「美容体操」講師を務め、香淳皇后の体操指導も担当した。夫は元クレージーキャッツの故安田伸。

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黒田美治(カントリー歌手)東京都出身
2月28日午後5時36分、肝臓がんのため東京都世田谷区の病院で死去、70歳。。東京キューバン・ボーイズの専属歌手として活躍後、戦後のウエスタンブームの火付け役となった。

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蟹江ぎん(百歳を超える双子姉妹の妹)名古屋市出身
28日午前1時50分、老衰のため名古屋市南区源兵衛町の自宅で死去。108歳。
家族によると、ぎんさんは今月に入ったころから、ほとんど寝たきりの状態で、家族ら五、六人にみとられ、眠るよ うに亡くなったという。姉の成田きんさんは平成12年1月23日に死去。ぎんさんは三世紀を生き抜いたことになる。ぎんさんは明治25年8月1日生まれ。平成三年に数えで百歳と なり、きんさんとともに「高齢者の希望の星」としてCMやテレビドラマに出演、写真集やテレホンカードも発売された。世界最高齢者のデビューとしてギネスブックにも登録された。

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■ロベール・アンリコ(仏映画監督)フランスでの報道によると、
23日未明、パリ市内の病院で死去、69歳。2年ほど病気だったというが、病名は不明。  パリの映画高等学院を卒業。当初は短編が中心で、「ふくろうの河」でカンヌ国際映画祭の短編部門グランプリを受賞した。以後、カナダ出身の女優ジョアンナ・シムカスを起用した「冒険者たち」(1966年)、フランスの女優ブリジット・バルドー主演の「ラムの大 通り」(1971年)など話題作を発表、成功を収めた。

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シャルル・トレネ(仏 歌手)仏南西部ナルボンヌ出身。1913年。
19日未明、パリ郊外のクレテールの病院で脳出血のため死去。87歳。
「ラ・メール」などのシャンソンで知られ、フランス国内のみならず全世界で圧倒的な人気を博し、詩人ジャン・コクトーは「最後の吟遊詩人」と評した。
少年時代から詩作に熱中し33年にはパリに移住。日夜、シャンソン作りに励み、生涯に作ったシャンソンは約千曲。「ラ・メール」「残されし恋」など世界中で親しまれている曲も多い。昨年春から脳出血などのため、入退院を繰り返していた。代理人によると、自らの意思で生命維持装置を外し息を引き取ったという。トスカ文化相は「やさしいフランスが悲しんでいる」と弔意を発表した。

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スタンリー・クレイマー(米映画監督)ニューヨーク出身
19日、最近、肺炎を患っていたがロサンゼルスで死去。87歳。
1930年代に映画界に入り、小道具や編集の担当を経験した。第二次世界大戦に従軍した後、映画製作会社を設立。最初の監督作品の「見知らぬ人でなく」(55年)、「ニュールンベルグ裁判」など、社会問題を主題に、メッセージを込めた映画で注目された。
主な監督作品に、核問題を取り上げた「渚にて」や黒人問題を取り上げた「手錠のまゝの脱獄」(58年)、「セールスマンの死」(52年)、西部劇の傑作「真昼の決闘」(同)などの製作でも知られる。米アカデミー賞に八十回ノミネートされ、16回受賞。61年に同 アカデミーのアービング・サルバーグ賞を受賞した。

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バルテュス(ピカソ亡き後の二十世紀最高の画家)
18日、スイス南東部ロシニエールの自宅山荘で死去。92歳。
1908年2月29日、パリに亡命中のポーランドの古い貴族の家柄に生まれた。両親とも画家で、兄ピエールは作家という芸術一家。両親と親しかったボナール、ドランらと少年時代から親交があり、13歳で出版した猫の絵物語「ミツ」で天分を発揮し、16歳で画家になることを決意した。美術学校などには行かずルーブル美術館でプッサンなど古典の模写で取得したデッサン力と、少女などを中心 にした不思議な官能性をたたえたモチーフで独特の世界を築いた。91年に第三回高松宮殿下記念世界文化賞(プレミウム・インペリアーレ)を受賞した。夫人は日本生まれの芸術家、節子さん。

2/14
並木鏡太郎氏(映画監督)
14日午後7時46分、肺炎のため山梨県石和町内の病院で死去、98歳。大阪市出身。
昭和4年に監督デビュー。「右門捕物帳」や「鞍馬天狗」シリーズで、嵐寛寿郎さん主演の“アラカン”映画の黄金時代を築いた。

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加堂秀三(作家)
埼玉県嵐山町志賀の自宅で自殺していたことが13日、分かった。60歳。
関係者の話などによると、2日午後、階段で首をつっている加堂さんを家族が見つけた。加堂さんは体調が悪く、妻や担当の医師などにあてた遺書が残されていたという。  昭和50年、「涸瀧(かれたき)」で第一回吉川英治文学 新人賞を受賞。ほかに「青銅物語」「舞台女優」などの作品がある。

2/10
■バディ・テイト(米ジャズサックス奏者)
10日、がんで死去、81歳。テキサス州出身。
20年代から演奏活動を始め、39年にカウント・ベイシー楽団に参加氏10年間にわたり活躍し、スイング・ジャズの代表的サックス奏者となった。またポール・クニシェットとの双頭バンドも有名。90年代半ばまで演奏を続けていた。

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アン・リンドバーグ(米国の作家)
7日、病気のため米バーモント州の自宅で死去、94歳。
1929年、初めて単独で無着陸大西洋横断飛行をした故チャールズ・リンドバーグ氏と結婚。32年には長男が身代金目的で誘拐、殺害された。夫とともに飛行機で各地を訪問 経験をつづった著作などを発表した。代表作は「海からの贈り物」(55年)

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デール・エバンス(米女優)
7日、心不全のため米ロサンゼルス近郊の自宅で死去、88歳。
米西部劇映画のスター俳優、故ロイ・ロジャース氏の相手役で知られ、1947年には同氏と結婚。「歌える西部劇女優」として人気を集め、テレビショーでも活躍した。

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朝吹 三吉(慶応大名誉教授・仏文学、元ユネスコ文化局次長) 東京都出身。
3日午前8時15分、心不全のため中央区の聖路加国際病院で死去、86歳。自宅は東京都港区高輪4の10の60の102。フランス象徴詩、特にランボーの研究で知られた。翻訳に、ジャン・ジュネの「泥棒日記」、ボーボワールの「レ・マンダラン」「老い」などがある。フランス文学者の朝吹登水子さんの兄、詩人の朝吹 亮二氏の父に当たる

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■J・J・ジョンソン(米ジャズトロンボーン奏者)インディアナポリス出身。
4日、自殺のため米インディアナ州インディアナポリスで死去、77歳。
地元の保安官事務所によると、最近健康を害していたという。
高校生の時にトロンボーンと出合い18歳でプロの道に。1940年代にアルトサックス奏者ベニー・カーターや故カウント・ベイシーらジャズの巨匠と共演し実力を認められた。61年〜62年にはマイルス・デヴィスと楽旅。64年にはソニー・スティットとも競演。83年にはアル・グレイト双頭バンドを結成。代表作として名アルバム「ダイアルJ・J・5」などを残す一方、1970年LAに移住、映画音楽を手掛けた。

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ジョー・メデル(元ボクサー)メキシコ市出身。
31日、メキシコ市内の自宅で、前立腺がんのため死去、。62歳。
55年にプロデビュー。相手をロープ際に誘い込んでから強烈なパンチを放つ逆襲を得意とし「ロープ際の魔術師」の異名をとった。67年に世界バンタム級王者だったファイティング原田に挑戦して敗れたほか、矢尾板貞雄、関光徳ら日本のトップ選手と数多く対戦し、日本でも人気が高かった。世界タイトルは獲得できなかったが、100戦以上のキャリアと記憶に残る名勝負を残して74年に引退。トレーナーとして選手の育成をしていたが、数年前に指導もやめた。

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■ブラザー・ジャック・マクダフ(米ジャズ・オルガン奏者)米イリノイ州出身。
23日、心臓発作のため米ミネソタ州ミネアポリスで死去、74歳。
独学で音楽を学んだ後、オハイオの学校で正式な音楽教育を受け、50年代初頭から自らのグループを率いて演奏活動を展開。59年に自己のカルテットを結成。65年にNYにに進出、以来ハーレムのクラブを中心に活躍を続け、prestigeをはじめ多数のレーベルにリーダーアルバムを多数録音している。代表作は「ダイナミック」(prestige)「ソフィスケイテッド・ファンク」(chese)93年には日本公演もしている。

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マルセ 太郎(ボードビリアン、劇作家)大阪市出身。
22日午後、岡山市川崎医大付属川崎 病院で死去、67歳。
在日朝鮮人2世として大阪市で生まれた。高校を出た後に東京へ出て、1956年、日劇ミュージックホールでパントマイム役者としてデビュー。その後はコントの修業を重ね、サルなど動物の形態模写の芸を開拓した。さらに、一本の映画を一人で丸ごとしゃべり続ける話芸「スクリーンのない映画館」を編み出し、話題を呼んだ。94年に肝臓がんと宣告され、その後も入退院を繰り返しながら、舞台をプロデュースするなど精力的な活動を続けた。98年には初めて韓国を訪れ、社会風刺を取り入れた独自の芸を披露した。舞台脚本に「黄昏に踊る」、著書に自伝的エッセー「芸人魂」がある。

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北崎 たか子(テレビドラマ・プロデューサー)福岡市出身。
20日午前10時10分、乳がんのため福岡市博多区の木村外科病院で死去、55歳。制作会社PDSに所属し、「女が家を買うとき」など自立するOL たちの姿を描くドラマを多く手がけた。最近ではシリーズドラマ「弁護士迫まり子の遺言作成ファイル」に取り組み、昨年12月放映のシリーズ第3弾が遺作となった。

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小池 聡行(オリコン会長兼社長)北海道出身。
20日午後9時51分、脳出血のため東京都新宿区の慶応大学病院で死去、68歳。同志社大卒。雪印乳業宣伝部などを経て昭和42年、レコードの売り上げ枚数を毎週ランキング化して発表する「オリジナル・コンフィデン ス」誌を創刊。日本の音楽業界全体に影響力を持つヒットチャート専門誌に育て上げた。テレビ、雑誌の芸能コメンテーターとしても親しまれた。

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佐山 淳(元浅草フランス座支配人)東京都出 身。

16日午前2時30分、肝臓がんのため東京都台東区浅草の自宅で死去、77歳。コメディアンなどを経て1986年から浅草のストリップ劇場のしにせ「浅草フランス座」に。99年6月に閉館するまで支配人を務めた。著書に「女たちは天使である」などがある。

1/13
本多秋五(文芸評論家)愛知県出身。
13日午前2時、脳出血のため神奈川県逗子市の自宅で死去した。92歳。
昭和7年、東大国文科卒業とともに批評活動を開始し「森鴎外論」「村山知義論」などで注目された。
16年からトルストイ研究に没入し、22年に「『戦争と平和』 論」を刊行。終戦直後、同人誌「近代文学」創刊に参加。転向文学や白樺派に関 する評論を次々と発表し批評家としての地位を確立した。戦後文学の綿密な検証「物語戦後文学史」で毎日出版文化賞、生い立ちの回想などを集めた「古い記憶の井戸」(昭和57年)で読売文 学賞、「志賀直哉」(平成2年)で毎日芸術賞を受けた。

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ウィリアム・ヒューレット(米ヒューレット・パッカードの共同創業者)
12日、老衰のため死去した。87歳。
ヒューレット氏は、米スタンフォード大学の同級生だったパッカード氏と、産学協同のシステムを確立し「シリコンバレーの父」と呼ばれたフレッド・ターマン教授の支援を受け、三九年に電子計測器メー カーとしてHP社を創業した。もう一人の共同創業者、デビット・パッカードは1996年に83歳で死去している。同社はマイクロ波や真空管技術などの最先端技術が評価され朝鮮戦争などの特需で業績を伸ばし、56年にはスタンフォード大学が建設した工業団地に入居、現在のシリコンバレーの基礎となった産学協同のシステムを確立、世界有数のハイテク企業に成長した。ヒューレット氏は昨年時点で資産90億ドルを有する資産家としてフォーブス誌で全米26位にランキングされたが、78年に最高経営責任者として一線を退いた後は教育、薬学分野の慈善事業に携わっていた。

1/12
■沢村宗十郎(歌舞伎俳優)東京出身。
12日午前9時5分、心不全のため大阪市天王寺区の病院で死去、67歳。
八代目沢村宗十郎の長男として東京に生まれる。1941年に沢村源平を名乗って初舞台を踏み、53年に五代目沢村訥升を襲名。一時は映画俳優となり、東映入りするが、後に歌舞伎に復帰。76年に九代目宗十郎を襲名した。谷崎潤一郎が舞台ぶりに魅了され、小説「瘋癲老人日記」の中にまで 引用した美ぼうと変幻自在で芸心たっぷりな演技で早くから頭角を現した。女形では「切られお富」などのあだっぽい悪女役、立ち役では江戸和事で知られた紀伊国屋(沢村家)の芸を体現したような「浮気の蒲焼」のだんな、「仮名手本忠臣蔵」の勘平など。89年からは毎夏のように自主公演「宗十郎の会」を行い、珍しい芝 居を次々と見せた。「紅皿欠皿」「鬼神のお松」「濡髪お関」など久々の復活となる貴重な上演だった。94年に芸術選奨文部大臣賞、95年に紫綬褒章を受章した。歌舞伎 俳優の沢村藤十郎さんは弟になる。昨年12月、歌舞伎座で家の芸である「蘭蝶」で主役の蘭蝶を演じたのが最後の舞台になった。

1/11
福島 幸雄(元NHKアナウンサー)東京都出身。
11日午後10時、大腸がんのため東京都町田市の病院で死去、72歳。
長くスポーツアナウンサーを務めた。昭和39年の東京五輪のテレビ総合司会の一員で、43年メキシコ、47年ミュンヘン、55年レークプラシッド冬季などの五輪中継を担当。49年から54年まで「ニュースセンター9時」のスポーツキャスター。60年に定年退職後は、NHK の外国向け日本語放送「ラジオ日本」のキャスターとして親しまれ た。

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中島洋次郎( 元衆院議員)
6日午後0時50分ごろ、東京都目黒区駒場5宅で、首をつって死んでいるのを家族が発見、110 番した。41歳。
中島被告は裁判で一貫して執行猶予付き判決を求めていた。最高裁は近く中島被告の死亡を受け公訴棄却を決定、裁判は終結する見通し。調べによると、中島被告は自宅 階段の手すりに荷造り用のひもをかけ、首をつっていた。発見時には死亡していた。一階居間のテーブルから、中島被告本人が書いたとみられる走り書きのメモ用紙一枚が見つかった。あて名はなかった。中島被告は海上自衛隊の救難飛行艇開発をめぐる汚職など四事件で 起訴された。公判では起訴事実を認め一、二審とも執行猶予付き判決を求めたが、一、二審とも実刑判決を受け、判決を不服として昨年10月に最高裁に上告していた。関係者によると、一審公判中の平成11年6月に二男が生後約二カ月で突然死した後、精神不安定になった。このため、二審では被告人質問をせず結審した。二審判決は減刑理由で「心身に相当程度、変調 を来し現在、通院治療中」と述べていた。

1/4
レス・ブラウン(米ジャズ音楽家)
4日、肺がんのため米ロサンゼルスの自宅で死去、88歳。
1936年にジャズのビッグバンド「バンド・オブ・レナウン」を結成し、リーダーとして活躍。音楽活動を共にしたことのある歌手のドリス・デイと「センチメンタル・ジャーニー」を大ヒットさせた。

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■桂 三木助(落語家)東京都出身。
3日午後2時5分、自宅のベランダで首吊り自殺。43歳。
3日午後1時25分ごろ、自宅1階東側ベランダでスウェットのパンツにバスローブを羽織った姿で、物干しざお用フックに着物の帯をか けて首をつって首をつっているのを、同居する母親が発見。遺書はなかった。父親は3代目・桂三木助。
落語協会によると、三木助さんは昨年12月1日から東京・池袋演芸場で行われた高座に出演。しかし自らのプロデュースにもかかわらず、10日間の予定の最初の3日間だけ出演した後、「体調不良」を訴え、残りを休演したという。また、年が明けて1日に東京・浅草東洋館で行われた新春寄席には遅刻。2、3日も出演予定だったが、劇場に姿を見せなかった。
1957年3月29日、立教大学経済学部卒。77年、柳家小さん門下に入門、85年に、4代目・三木助を襲名。現代的なセンスを生かした話しぶりから“落語界の新人 類”といわれ、高座のほかテレビ、ラジオで活躍。97年に芸術祭優秀賞を受賞。

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■レイ・ウォルストン(トニー賞受賞の米俳優)ニューオーリンズ出身。
1日午後、老衰のためロサンゼルスの自宅で死去、86歳。
ブロードウェーのヒットミュージカル「南太平洋」に出演し認められた。1956年に「く たばれ!ヤンキース」の悪魔役でトニー賞を受賞。映画化された「南太平洋」 に出演後、テレビのコメディー番組「ブラボー火星人」で火星人役を演じ全米 で人気に火が付いた。「ピケット・フェンス」では94年から3年連続でエミー賞の連続ドラマ部門助演男優賞受賞した。昨年10月にテレビドラマに出 演したのが最後の芸能活動だった。